倫理についての基本
改めて、「現代倫理学」の考察をし、これを、残りの人生の主目的としようと考えている。
以前に書いた内容と重複していたりするだろうが、それは後で調整する予定だ。
まず、「倫理の性質」「倫理の目的」について、現段階での考えを書く。
1:「倫理の性質」
倫理とは「禁止の体系」である。(これは前にも書いた。)
2:「倫理の目的」
倫理の目的は、「個人と社会の幸福の増進」で、この2者(個人の幸福と社会の幸福)は一致することも相反することもある。
近視眼的に見れば、倫理が「禁止の体系」である以上、それは個人の幸福を阻害すると感じられる。幼児や若年層の非行や大人の犯罪・邪悪な行為は、この「禁止への反抗」である。しかし、倫理は社会秩序の基本であり、その適正化は、社会の幸福を増進し、ひいては個人の幸福を増進する。このメカニズムへの無理解が、社会秩序を悪化させ、個々人をも不幸にする。
弱者援助や弱者保護は、「強者の利益」を削減するので強者には不評だが、強者が弱者に転落したらその幸福を保証するのは弱者援護や弱者保護の「倫理」である。つまり、一般的に強者は倫理を必要とせず、むしろ「強者の利益を阻害するもの」と見做す心理的必然性がある。強者の「倫理の無視」は、社会全体の倫理水準の低下を招く。
3:「倫理の障害としての自己愛」
倫理の最大の障害は「自己愛」である。自己愛は人間の根本的本能であるので、倫理とは「不自然なもの」となる。これは、「文化」、特に宗教が不自然であるのと同様である。すべての宗教は不自然なのである。それは、人間に「動物である以上のこと」を求めるのである。
男より自然な動物である女性は、倫理という「禁止の体系」に重きを置かない。倫理は論理と同様に「頭で作ったもの」なので、感情の生き物である女性にはほとんど通用しない。しかし、女性は「愛情の生き物」でもあるので、老人や子供、弱者などへの自然な同情を持っていて、それが倫理の代わりとなる。だが、男性でも女性でも、究極的には「自己愛」が他者との関係の根本的障害となる。
以前に書いた内容と重複していたりするだろうが、それは後で調整する予定だ。
まず、「倫理の性質」「倫理の目的」について、現段階での考えを書く。
1:「倫理の性質」
倫理とは「禁止の体系」である。(これは前にも書いた。)
2:「倫理の目的」
倫理の目的は、「個人と社会の幸福の増進」で、この2者(個人の幸福と社会の幸福)は一致することも相反することもある。
近視眼的に見れば、倫理が「禁止の体系」である以上、それは個人の幸福を阻害すると感じられる。幼児や若年層の非行や大人の犯罪・邪悪な行為は、この「禁止への反抗」である。しかし、倫理は社会秩序の基本であり、その適正化は、社会の幸福を増進し、ひいては個人の幸福を増進する。このメカニズムへの無理解が、社会秩序を悪化させ、個々人をも不幸にする。
弱者援助や弱者保護は、「強者の利益」を削減するので強者には不評だが、強者が弱者に転落したらその幸福を保証するのは弱者援護や弱者保護の「倫理」である。つまり、一般的に強者は倫理を必要とせず、むしろ「強者の利益を阻害するもの」と見做す心理的必然性がある。強者の「倫理の無視」は、社会全体の倫理水準の低下を招く。
3:「倫理の障害としての自己愛」
倫理の最大の障害は「自己愛」である。自己愛は人間の根本的本能であるので、倫理とは「不自然なもの」となる。これは、「文化」、特に宗教が不自然であるのと同様である。すべての宗教は不自然なのである。それは、人間に「動物である以上のこと」を求めるのである。
男より自然な動物である女性は、倫理という「禁止の体系」に重きを置かない。倫理は論理と同様に「頭で作ったもの」なので、感情の生き物である女性にはほとんど通用しない。しかし、女性は「愛情の生き物」でもあるので、老人や子供、弱者などへの自然な同情を持っていて、それが倫理の代わりとなる。だが、男性でも女性でも、究極的には「自己愛」が他者との関係の根本的障害となる。
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