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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「悪の凡庸性」への疑問

念のために先に言っておくが、私は「悪の凡庸性」を言ったハンナ・アーレントの著作を読んだことはない。ただ、この言葉についてだけここでは論じる。
はたして悪は凡庸だろうか。
確かに、凡庸な人間が悪事を行うことは多いだろうが、それは悪が凡庸だという話になるか、ということだ。「悪が容易に行える条件がある時に、誰でも悪を容易に行う」ということは、「悪が凡庸だ」という結論に論理的に結びつくとは私は思わないわけだ。
もちろん、通常は「倫理のハードル」があって、普通の人は容易に悪を行わない。しかし、誰も目撃者がおらず、悪を行った証拠もまったく残らないという条件がある時に、悪を行わずにいることは普通人には困難だろう。
これは、バルザックの小説の中で「君がうなづくだけでシナの役人の首が飛び、君にはそれで大金が手に入るなら、君は頷かないでいられるか」と、悪党ヴォートランが見事に寓話化した問題だ。
つまり、悪を行うには行うだけの条件が必要なのであり、それは悪自体がけっして凡庸な事象ではない、ということを意味していると私は思う。
日常生活では虫も殺さない優しい人間が原爆を投下して数百万の人間を殺戮できるのも、それが戦争であり、自分はその数百万の死を目視していないという条件によるのである。
果たして悪は凡庸なものだろうか。
悪が凡庸だと言うなら、それは倫理が凡庸だ、と言うに等しいのではないか。
念のために言うが、私は「凡庸な人間でも物凄い悪事を行える」ということを否定しているわけではない。単に、凡庸な人間をそういう行為に仕向ける悪という存在の異常な力を言っているのである。凡庸な人間が悪を為すことは、「悪霊に憑りつかれる」というキリスト教的な言い方のほうが現実に近いのではないか。日本でも普通に「魔が差す」とも言う。
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