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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

先任伍長とは何か

昔の軍隊の話(漫画など)にたまに出て来る「先任伍長」だが、文字通り「先に任命された」意味だろうとは思っていたが、その重みは単なる「伍長」とは異なるようだ。

(以下引用)

「先任伍長」の協力なくして艦は動かない

 護衛艦では、各部署に「長」をはじめとした「幹部」がいて、その下に実際に手足となって動く「海曹(いわゆる下士官。士官の下、兵士の上のポジション)」や「海士(いわゆる兵士)」がいます。海曹と海士はまとめて「曹士」と呼ばれますが、この曹士が護衛艦などでは最も人数が多いです。

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写真右が「先任伍長」で、胸元にある金色のメダルが「先任伍長識別章」(2019年10月、柘植優介撮影)。

 彼ら曹士をいかにして統率するかというのはもちろん重要で、そこで「先任海曹」と呼ばれるベテラン乗員たちが各部署に配置され、部署ごとに曹士をまとめ上げています。この「先任海曹」の「先任」とは「古参」という意味で、海曹の中の古参だから「先任海曹」というわけです。

 一方「先任伍長」は、「先任」については同じく「古参」の意ですが、「伍長」は上述したように、海上自衛隊においては階級をさす呼称ではありません。

 そもそも、「伍長」とは古代中国で「五人組の長」を指したもので、そこから転じて「組長」や「班長」という意味の単語となり、旧日本陸軍においては階級のひとつとなりました。上等兵の上、軍曹の下というポジションです。陸上自衛隊にたとえるなら、3曹あたりに相当します。一方、旧日本海軍に「伍長」という階級はなかったのですが、階級とは関係なく下士官や兵たちをまとめる立場にあった人間を「伍長」と呼んでいました。従来の「班長」くらいのニュアンスです。

 そして艦内各部署の「伍長(班長)」の取りまとめ役として、そのなかの古参者という意味で「先任」を付け、最古参の伍長を「先任伍長」として指名し、下士官兵の元締めとしての役割を担わせました。

 海上自衛隊における「先任伍長」は、この旧日本海軍の「先任伍長」の役割を復活させたものです。つまり階級ではなく、「役名」というわけです。そして「先任伍長」は、「先任海曹」たちのなかで最古参の隊員であり、つまり艦長と同じく、1艦につきひとりしかいません。海上自衛隊の規定ではその役割について、規律および風紀の維持や、海曹士の総括、隊内の団結強化などとしています。要はベテランとして艦内の曹士全員をまとめ上げ、幹部の補佐をし、護衛艦の運用に支障をきたさないよう目を光らせるのが仕事です。

 なお、掃海艇など護衛艦よりも小さな「艇」や、それから海上自衛隊の陸上部署、たとえば海上幕僚監部や自衛艦隊司令部、地方隊などにも「先任伍長」は配されていて、それぞれの職場で上述のような役割を担っています。

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英連邦王国の崩壊が進む

ジャマイカが来年にも英連邦を離脱する予定らしい。その一足先に離脱したバルバドスの記事を「スプートニク」から転載する。

(以下引用)

バルバドス 英連邦王国からの離脱を宣言

バルバドス 英連邦王国からの離脱を宣言 - Sputnik 日本
カリブ海、西インド諸島に浮かぶバルバドスは来年2021年から英連邦王国から独立し、一共和国となることを宣言した。バルバドスのサンドラ・メイソン総督は、同国は女王エリザベス2世を国の長として認めない、独立国となることを明らかにしている。テレグラフ紙が報じた。

メイソン総督は議会の会期開会式で演説をした中で、次のような声明を表した。


「我々の植民地時代を過去とする時が到来した。バルバドスの住民はバルバドスの国の長を求めている。これは我々が何者であり、何を達成しうるのかをはっきり確証する最終的な声明である。バルバドスは完全な主権を目指し、論理に適った次なる一歩を踏み出し、我々が独立55周年記念を祝う時までに共和国となる。半世紀以上前に独立を獲得した我らの国は自治能力を疑うわけにいかない。」

バルバドスは1966年に独立を獲得したが、それ以降も英国の女王はバルバドスの長であり続けている。エリザベス2世はかつて植民国であった15の独立国(オーストラリア、アンティグア・バーブーダ、ハバマ、バルバドス、ベリーズ、カナダ、グレナダ、ジャマイカ、ニュージーランド、パプアニューギニア、セントクリストファーネイビス、セントルシア、セントビンセント・グレナディーン、ソロモン諸島、ツバル)と英連邦王国の長として君臨している。

トロッコ問題としての「夢」

某アニメを見ていて思ったのだが、自分の名前のついた少惑星か何かを見たいから月に電波望遠鏡か何かの大望遠鏡を作りたい、あるいは作らせたいという夢を持つ天文学者の夢は、多くの人の労力と膨大なカネをかけても実現するに値する夢なのだろうか。
その膨大なカネがあれば、何十人もの、あるいは何百人もの人間の命が確実に救えるのである。いや、ひとりの命でもいい。月の望遠鏡は、むざむざと死んでいく人間の命より貴重な価値があるのだろうか。月の望遠鏡は、それほど未来の人類の幸福や生命維持に寄与するものだろうか。

そして、その天文学者と子供のころに「自分は月に行く」と約束したアニメ主人公の夢は、はたして他のすべての宇宙飛行士志望の人間の夢より優先される価値があるのだろうか。子供のころの夢を大人になっても持ち続けていることは、そんなに素晴らしいことだろうか。月に立ちたいという夢は、隣家の貧困老人を助けるより大事な夢だろうか。いや、老人など汚いだけだし、助ける義務はない、という気持ちは分かるが、ひとりの人間の生命を一日でも伸ばすのは、月に行くよりははるかに素晴らしい行為なのではないか。いや、猫一匹の命でも、誰かが月に降り立つより、はるかに貴重なのではないだろうか。

まあ、そう言いながらも、私は昔は「ベートーヴェンの第七交響曲がこの世に生まれることは人類の半分の生命より価値がある」と思っていたのである。優れた芸術作品は、人類が月に降り立つよりはるかに価値がある。月など、空にあればいいのであり、人間の足が汚す必要などない。特に、月に降り立つ人間の動機が単なる功名心(それを夢と言ってもいい)であるとすればなおさらだ。

ギターの「弾き語り」という変な言葉

この回答に納得できるだろうか。歌わないで演奏することも「弾き語り」と言うのではないか?
そもそも、今の時代に「演奏しながら語る」ことはほとんど無いだろう。

(以下引用)

1人が共感しています

ベストアンサー

arl********

2020/1/6 9:53

格物致知とは何か

朱熹のように、「格」を「至る」と読むのは無理があるだろう。しかも、それだと「致知」の「致」と同じであり、字を変えた意味がない。王陽明の「格(正す)」のほうが自然だと思う。

(以下引用)

格物致知

格物から転送)

格物致知(かくぶつちち)とは、儒学術語で、伝統的に様々な解釈のある複雑な概念である。格致(かくち)とも略される。『礼記』大学篇(『大学』)の一節「致知在格物、物格而知至」に由来する。

とりわけ、宋代以降の朱子学において重要視され、格物窮理(かくぶつきゅうり)とも言い換えられた。すなわち『易経』説卦伝の一節「窮理盡性以至於命」(を窮(きわ)め性(せい)を尽くし以て命(めい)に至る)の「窮理」と結びつけられ、「事物のを探究する行為」を意味した[1]

概要[編集]

礼記』は儒教の経典(経書)である。その『礼記』の一篇「大学篇」は、儒教の思想を簡潔かつ体系的に述べた篇である。宋代以降は、大学篇そのものが一個の経書(四書の一つ『大学』)に位置付けられた。

大学篇の内容は、「三綱領」と「八条目」に要約される[1]。三綱領とは、「明徳を明らかにし、民を新たにし(民を親しましむと読む説もある)、至善に止る」の三項、八条目とは、「格物、致知」の二項と、「意を誠にし、心を正し、身を修め、家を斉え、国を治め、天下を平らぐ」の六項を合せた八項目のこと。これらは全体として、儒教思想の体系を巧みに論理だてて、説き明かしている。ところが八項目のうち六項目については、『大学』の文中で詳しい解説が与えられているのに対し、「格物、致知」の二項については、一言も説明が加えられていない。「格物、致知」が解らなければ、段階を追って組み立てられている八条目の思想が出発点から曖昧になる。そこで、特に宋代以降、儒学者のあいだで、この解釈をめぐって儒教の根本問題として論争の的となった。

歴史[編集]

までの伝統的な解釈である後漢鄭玄(127~200)注では、「格」を「來」、「物」を「事」、「致」を「至」と解し、善や悪を深く知ることが善いことや悪いことを来させる原因になるとしていた。しかし、この一文はかつてはそれほど注目されたものではなかった。

重視されるようになったのは、北宋程頤(1033~1107)が格物を窮理と結びつけて解釈してからである。彼は自己の知を発揮しようとするならば、物に即してそのを窮めてゆくことと解釈し、そうすることによって「脱然貫通」(だつぜんかんつう)すると述べた。

南宋朱熹(1130~1200)はその解釈を継承し、『大学』には格物致知を解説する部分があったとして『格物補伝』を作った。ここで格は「至(いたる)」、物は「事」とされ、事物に触れ理を窮めていくことであるが、そこには読書も含められた。そして彼はこの格物窮理と居敬を「聖人学んで至るべし」という聖人に至るための方法論とした。この時代、経書を学び、科挙に合格することによって官僚となった士大夫に対し、格物致知はその理論的根拠を提供した形である。しかし、格物は単に読書だけでなく事物の観察研究を広く含めた。そこから、近世以降の東アジアでは博物学本草学名物学)の営為が「格物」と表現されることもあった[2][3]。また、末中国の丁韙良英語版『格物入門』、幕末日本の福沢諭吉窮理図解』など、西洋の自然科学自然哲学)を導入するに際しても「格物」「窮理」の語が使われた。

一方、明代の王守仁(王陽明、1472~1528)は、「格物」は外在的な物に至るというものではなく、物を「正す(格す)」として、自己の心に内在する事物を修正していくこととし、「致知」とは先天的な道徳知である良知を遮られることなく発揮する「致良知」だとした。ここで格物致知は自己の心を凝視する内省的なものとされた。また初の顔元は「格物」を「犯手実做其事」(手を動かしてその事を実際に行う)とし、そうすることによって後に知は至るとした。ここで格物致知は実践によって知を獲得していくこととされている。

従って「致知在格物」の読み方もそれぞれ異なり、朱子は「知を致すは物に格(至)るに在り」と読み、王陽明は「知を致すは物を格(正)すに在り」としている。

出典[編集]

  1. a b 湯川敬弘・小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)『格物致知』 - コトバンク
  2. ^ 太田由佳「松岡恕庵本草学の研究(要旨)」、京都大学 博士論文、2011年。 / 太田由佳『松岡恕庵本草学の研究』思文閣出版、2012年。ISBN 978-4784216178
  3. ^ 西村三郎『文明のなかの博物学 西欧と日本 上』 紀伊國屋書店、1999年。ISBN 978-4314008501。第2章「花ひらく江戸の博物学 「格物致知」-朱子学の立場」

関連文献[編集]