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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「正義を疑え」など、思索家には大昔からの常識だが

最近は、こうした「正義を疑う」発言が大流行りで、少々うんざりしている。悪人にとっては望ましい傾向だろう。彼を非難したら、「それはお前の正義であり、お前の主観だろう」で口封じができるわけだから。そして、こうした「正義を疑う」発言は、たいてい権力擁護者、つまり現体制から利益を得ている人間やその関係者から発せられやすい気がする。



さんがリツイート

自分は正しいと思ってる人がいつも加害者になる。どこまでも残虐になれる。身に付いた正しさを捨てて生きたい




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顔の美しさと魅力は別物

昔美人だったけど、お気楽に生きてきて、年を取って男にまったくモテなくなって辛い、というスレッドのコメントの一部だが、176のコメントはいいことを言っていると思う。
ただし、見た目というのはまさに「アイキャッチ」であり、人間同士が知り合う(近づく)一番最初の導入部になる。だが、挨拶を交わした後は、内面が問題になってくる。中味の無い人間は、少し話せば分かるのであり、下のスレ主は、美人でなくなったからモテなくなったのではなく、中味が無い人間だから周囲に相手にされなくなったのだろう。昔から女性に嫌われた、と本人が書いているのも、そこに原因があると思う。美人は年を取っても美人なのであり、魅力のある中年や老年の美人はいる。だが、その魅力は美人だからではなく、表情や行動に現れる内面の良さである。




176 :以下、?ちゃんねるからVIPがお送りします:2019/06/18(火) 06:00:55.986 ID:W1xQUQC30.net
>>167
お前は馬鹿でも若い子に行くような男にモテて嬉しいか?

本当に付き合う価値のある男は見目や年齢なんかにとらわれてないよ



184 :以下、?ちゃんねるからVIPがお送りします:2019/06/18(火) 06:04:25.686 ID:8kBGqX7P0.net
>>176
あ!なるほど、嫌だ、そんな男。

賢くて常識ある真面目に働いてる優しい人がいい!!

本当だね、中身も大事なんだ納得した


恩返しと復讐

この発想は面白い。我々は言葉に騙されて、「恩返し」をしたら、恩は返された、つまり相手への心理的負債(これは漱石の「坊ちゃん」の中の山嵐と坊ちゃんのエピソードから、恩とは心理的負債であると分かる。)はそれで清算されたと思うのだが、実は、恩を受けたという事実は変わってはいない。従って、恩を返すことは不可能であり、ただ謝するのみだ、というのは正しい思想だと思う。
と同時に、「仇を返す」ことも不可能だとなるだろう。「敵討ち」をすれば、その時には一種の爽快感もあるだろうが、その敵討ち自体が「他者への危害」であるのだから、良い行為であるはずはない。相手に危害を受けたという事実は、復讐によって消えることはない。単に心理的負債の清算の問題だとしても、相手に受けた危害の事実は変わらず、その上、相手に危害を加えたという自責の念が加算されるだけであるわけだ。
まあ、そうは言っても、我々凡人は「復讐は何も生まない」と達観はできず、復讐の快感を選ぶだろう。




さんがリツイート

恩は返せるものではない ただ謝するのみである

組織とパワハラ

ネットでは、こうしたパワハラに耐えきれない人間を「豆腐メンタル」と揶揄する一派がいるが、つまり、社会や組織ではそうした精神的暴力性が当たり前、潰されるほうが悪いという思想である。実際にそういう連中がこのようなパワハラを受けた経験があり、それで精神が鍛えられたのかは検証不可能だから、実はただの泣き虫がネットの上でだけ威張ってみせている可能性もあるwww
それはともかく、人前で大の大人を精神的に攻撃し打撃を与える行為が「社員研修・講習」の名目で行われることは珍しくない。私はそれがいやだから、組織そのものが嫌いなのである。確かに、組織にすることで大きなパワーが作り出せるが、その反面、組織所属者に大きな精神的圧力をかけるのもまた組織なのである。組織所属者は多かれ少なかれその影響で精神がいびつになるが、それが「精神が強くなった」と見られることも多い。
たとえば、スポーツの組織に所属した経験の長い人間で、勝利至上主義者にならない人間は稀だろう。なぜなら、勝敗を争うことがスポーツの本質であり、勝利至上主義こそ本質的な意味でのスポーツマンシップだからだ。だが、勝利至上主義者ほど危険な存在も無いのである。当たり前の話であり、勝利を何よりも優先する人間がモラルなど顧慮するはずがない。

 大阪府内で大学などを運営する学校法人追手門学院が2016年に開いた職員研修で、外部の講師が「腐ったミカンは置いておけない」などの厳しい言葉を各受講者にかけていたことがわかった。学院側は、研修中やその後、受講者に退職を勧めており、翌年度にかけて少なくとも数人が退職したり休職したりした。

 複数の受講者の証言などによると、学院は16年8月22~26日、追手門学院大学(大阪府茨木市)などの事務職員18人を大阪市内のビルに集め、「自律的キャリア形成研修」を開催。講師は東京都内のコンサルタント会社が担い、学院幹部らが入れ替わり立ち会った。

 研修の中で学院側は、内容を講師と事前に精査し、「全権委任している」と説明。講師は「自己改革」などをテーマに1人ずつ、受講者全員の前で発表させ、その場で講評した。

 その際、受講者の一人に「腐ったミカンを置いておくわけにはいかない。まだ少しは可能性があって頑張ろうとしているミカンも腐ってしまう」と発言。ほかの受講者にもそれぞれ「あなたが一番、参加する意欲、姿勢が曇っている。よどんでいる」「負のオーラばっかりだ」「あなたは要らない」などと言った。

 研修で講師は、受講者を選んだ理由について「28歳以上59歳未満」「前年度評価で降格」など5条件のどれかか複数に該当すると説明。(1)退職(2)年俸制など(3)関連会社への出向転籍(4)関連会社への転籍後に退職(5)再生・現状維持、の選択肢から選ぶよう求めた。

 受講者の一人は取材に「全員の前で人格否定されるのを聞かされ、心を閉ざさないと精神をやられると思った。辞めさせるための研修だと感じた」。別の受講者は「要らないと繰り返し言われ、ショックで寝られなくなって通院した」と話した。

 研修後も講師や学院幹部に数回呼ばれ、「現状維持」を訴えても「退職勧告書」を渡された人もいた。

 学院は取材に、「腐ったミカン」などの発言を認めた上で、「消極的な受講姿勢を指導した発言。改善後、講師は称賛のフォローをしている」と回答。研修後のリポートで「多くの学びが得られ、参加してよかった」との感想が述べられたとしている。今回の研修について「違法性はない」との見解を示し、「教職員本位から学生・生徒等学習者本位へといち早く転換し、教職員挙げて教育の質の向上、質保証にまい進している。本研修はその一環で実施した」と回答した。

 学院は大学や小・中・高校などを経営しており、大学の職員数は115人。

 コンサルタント会社は、ホームページ(HP)によると、教育機関の人事や研修の支援などをしており、取材に「クライアントの情報は一切開示しない」としている。

 同僚の前での叱責(しっせき)や侮辱は厚生労働省の有識者会議が12年にまとめたパワーハラスメント類型の一つに含まれるとされる。過去の裁判ではパワハラを伴った執拗(しつよう)な退職勧奨の違法性が問われ、不法行為と認められたケースもある。(小若理恵、石川智也)

■「外部の人使った学院のパワハラ」

 〈労働問題に詳しい萬井(よろい)隆令(たかよし)・龍谷大名誉教授の話〉 「腐ったミカン」などの発言は人格否定で侮辱、パワハラにあたる。それを伴った退職勧奨ならば民法上の不法行為だ。学院が内容を講師と精査したと断っている点から、外部の人を使った学院のパワハラだと言えるのではないか。




人情を基盤とする人間関係と利害を基盤とする人間関係

電話の話は別として、人間関係を利害関係として捉える人間はけっこういると思う。現代ではそのほうがむしろ大多数かもしれない。
そういう人間が存在する、というのは、私は大学進学で都会に行ってはじめて知った。まあ、田舎者で精神的に子供だったためだが、それまで、人間関係を利害関係として考えたことは無かったのである。たとえば、大学の友人や先輩から講義ノートを借りるなどの行為である。私は、自分の利益のために平気で他人を利用する人間を初めて見てショックを受け、しかもそういう人間がむしろそこでは普通であること、利用される人間も平気でそれに協力すること(つまり、自分の努力で成績を上げるのではなく、他者の利用で効率的に成績を上げる行為に協力すること)が、非常に不道徳な感じがして耐え難い思いをした。
夏目漱石は『三四郎』で、主人公の三四郎を田舎者として描いているが、その「田舎者」の精神は、やはりどうしても都会人である漱石の空想の産物であり、こうした「功利主義的な人間関係」が都会人の特徴のひとつであることは理解していなかったと思う。いや、田舎者にも欲深な人間もエゴイストも悪どい人間も無数にいるが、基本的には、狭い社会では素朴な情愛から人間関係は営まれると思う。まあ、田舎者の鈍重な思考形態が嫌だ、という人間も田舎にもいるだろうが、お互いを気軽に利用し利用されるという都会的な交際というのは、やはり今でもどこかおかしなものに思える。これはモリエールの『人間嫌い』の主人公の心情に近いかもしれない。




電話によるやりとりの非効率さを攻撃している人たちは、そもそも人間と人間のコミュニケーションが時間と労力の浪費だという基本的な認識を欠いている。彼らはコミュニケーションという動作を、カネと情報と人脈を生み出す資産形成の一過程だぐらいに思っている。つまり強欲なのだね。