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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

義務と自発

昔から、「下手な考え休むに似たり」という言葉もあり、何か(特に目の前の仕事)についてあれこれ考えるのは、実は「それをしないで済む方法が何か無いか」考えているだけ、という場合が多いのではないか。
そういう義務的仕事でない場合、たとえば趣味的行為だと、我々は難しさや面倒くささをけっして避けたりはせず、むしろそこに面白さを見出したりする。



  1. 「君は、勇気と自暴自棄の区別がついていないようだね」
    「どこが違うんだ?」
    「勇気とは、自らの安全すら顧みずに前に進む強い決意のことで、一方、自暴自棄は、単にすべてを投げ出した判断放棄を意味している」
    「で、どう違うんだ?」
    「……同じかもしれない」

  2. ひとつ言えるのは、自分が勇気に基づいて行動していると思いこんでいる時、その人間は、単に知的に検討する作業を投げ出しているだけなのかもしれないということだよ。

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ガラケーを使い続ける理由

私もガラケー党だが、理由は簡単で、携帯電話は電話としてしか使わないからだ。それに、持ち運びの際に、ズボンのポケットに入れやすい。それで十分であり、ネットを使うにはパソコンがあればいい。何も外出先でネットに接続する理由はない。まあ、社会とつながっている人間ならスマホでないとできない作業もあるのだろうが、四六時中社会とつながっているのは私には不快でしかない。
ただし、使用料金がなぜかどんどん上がってきているので、近いうちに契約変更するつもりだ。ガラケーのほうがスマホより高いのは理不尽だが、携帯会社にとっては「使用台数が少ないから商売の旨味がない」ので、使用料金を上げているのだろう。実に下品である。

(以下引用)なぜかコピーが半分しかできないし、文字が勝手に拡大されているが、まあ特に面白い記事でもないので後半は読むまでもないだろう。



周囲の人に「ガラケー男」と呼ばれるようになったという中川淳一郎氏 © SHOGAKUKAN Inc. 提供 周囲の人に「ガラケー男」と呼ばれるようになったという中川淳一郎氏

 いわゆる「あおり運転殴打事件」で逮捕された宮崎文夫容疑者(43)の同乗者で、高速道路上の被害男性の車をガラケーで撮影し続けた喜本奈津子容疑者(51)は、メディアで「ガラケー女」と報道されている。

 ネットでも「ガラケー女」という書き込みは多数見受けられるが、それだけスマホ全盛の今、「なぜガラケーで撮影をする」「なんでスマホ使わないの?」という感想を持った人が多いのではないだろうか。「まさかのガラケー」と報道するメディアもあるほどだった。

 それだけ絶滅危惧種となっているガラケーだが、喜本容疑者のせいで「ガラケー男」と呼ばれるようになってしまった人もいる。ネットニュース編集者の中川淳一郎氏はスマホを持っておらず、2013年型のシャープのガラケーを未だに使っているが、打ち合わせでこの事件の話題になると「そういえば中川さんも『ガラケー男』ですよね」と苦笑されるというのだ。

 宮崎容疑者の暴行の様子を止めようともせず、その直前にはサングラス・帽子で顔を隠し、ガラケーをかざして撮影をし続ける喜本容疑者に対しては「非常識」扱いだ。さらには宮崎容疑者も一見ガラケーに見える「ガラホ」を使っていたと指摘されており、「ガラケー使いはDQN(非常識な人)」といった声もネットでは書き込まれた。中川氏はこう嘆く。

「いやぁ~、最近、仕事で会う人会う人、あとは飲み会で会う人から笑われることが多くなりました! あのカップルのように非常識なDQNだったのか、なんて言われ方もされます。もちろん、皆ジョークで言っているものの、私のことをまったく知らない人が、私がガラケーをポケットから取り出す様子を見たら『近づいてはまずい』なんて思ってしまうかもしれません。

 初対面の仕事相手からしても、『えっ、もしかしてDQNなの?』なんて思うかもしれないので、最近はガラケーを会議中、外に出さないようにしています。もう何年も『なんでまだガラケー使ってるの?』なんて言われてきたものの、今回の騒動により、ガラケー使いの肩身が格段に下がったように思えます。とんだ風評被害ですよ……」(以下同)

 では、なぜ同氏はガラケーを使い続けるのか。そこには何らかのメリットがなくてはならないだろう。

「今の時代、書類等の添付されたメールを送ればすぐに返事が返ってくると思う人が多過ぎる。それは『返事ができる環境に常時いる』からに他なりません。緊急性の高すぎる仕事なんてそこまではない。だったら『ガラケーなんでメールは見られません』と言った方がラク。あと、スマホは中毒性が高いので、どうでもいい情報に常に接することになるし、余計な課金をしてしまう懸念もある。ガラケーだとそもそもネットに繋げるのも大変だし、今の時代、対応するサービスもどんどん少なくなっていっているので、業者からむしり取られる心配もない。特に不自由がないんです」

 こうした利点を同氏は主張するものの、こう考える人はもはやマイノリティではないだろうか。生活空間全般へのスマホ対応化が進む昨今、ガラケーは奇異なものとして捉えられているようだ。中川氏はこう続ける。

「今回の騒動でガラケーが注目されましたが、この風潮は、昨年10月、さいたまスーパーアリーナの沢田研二のコンサートがドタキャンされた時以来です。報道では、ガラケーで現場の看板を撮影する高齢女性が多く写っていましたが、この時もネット上には『ガラケー久々に見た』『ガラケーをまだ使ってる人がいたんだ』と驚かれていました。それだけガラケー使いは『奇怪な人』扱いなんでしょうね」





皇尊で神なら仕方がないね

これは、強姦なら犯罪だろうが、和姦なら問題ないのではないかwww 男と一緒にホテルに入った時点で、和姦だと私は思う。
もしかしたら、そのセックスで生きる意欲が生まれないとも限らない。また、どブスの処女なら、むしろ死ぬ前に善行を施したと言えるような気もする。
ジャンヌ・ダルクは死刑(火刑か)が決まっていたが、処女を殺してはいけないという禁忌があったため、死刑にする前に刑吏が彼女の処女を奪ったという話もある。
まあ、嫌味な言い方をすれば、どうせ死ぬつもりの人間なら、こういう「使用法」も一種の廃物利用で結構なことではないか、ということだ。「被害者」JKの「自殺(相手)募集」も、心の奥底では一種の「出逢い」を求めての自己宣伝広告だったと私は見ている。本気で死ぬ気なら、ひとりでビルなどから飛び降りるのは簡単なことだ。練炭自殺や睡眠薬自殺というのも、「自殺に失敗する可能性が数パーセントある」からこそ選ぶのだろう。
そういう相手(つまり青年期精神病患者)に「生きるべきだ」と「べき論」で説得しようが無意味だろう。自分の生命すら捨てようという人間が、自分のマ〇コをどう使われようが気にするだろうか。外部の人間がそれにあれこれ言っても仕方が無い話だ。
私は、この「犯人」はその努力に見合う成果を得たにすぎないと思う。犯罪というより、ヤリたい一心での涙ぐましい努力と言うべきだろう。
表面は澄ましている女性でも、男がそんなにヤリたいならヤラせようという女性、つまり、この犯人に内心では同情する女性もけっこういるような気がする。まあ、私は男だから女性心理は分からないが、私の知るかぎりでは、性欲しか頭にない馬鹿な男は(それを最低限誤魔化している限りにおいて)けっこう女性に好かれるものだ。








【狂気】JK「死にたい」男「死ぬ前にエッチさせて」→→→







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1:2018/06/01(金) 15:04:46.37 ID:CAP_USER9.net
ツイッターに「死にたい」などと書き込んだ県内の女子高校生に、自サツを手助けすると持ちかけ、わいせつ目的で誘拐したとして、わいせつ誘拐と県青少年健全育成条例違反の罪に問われた、 
千葉県の元解体作業員、太田皇尊被告(40)の公判が三十一日、岐阜地裁であった。被告がツイッターで「神」を名乗り、「自サツを手伝う」などと女子生徒に近づいた手口が明らかになった。 

 被告人質問などによると、被告は二〇一七年十一月中旬、女子生徒の「自サツ募集」などの投稿を見つけ、「神」と名乗って連絡を取り合うようになった。 
同月下旬に県内で待ち合わせてホテルに連れ出し、女子生徒が十八歳未満と知りながら、みだらな行為をしたとされる。二人は県内の山中に移動し、女子生徒は睡眠薬などで自サツを図ったが、一命を取り留めた。 

 被告は、女子生徒に会った理由を「自サツが本気ならば手伝い、そうでなければ止めるつもりだった」と説明。みだらな行為については「自サツを止めるため。性欲を満たすためではない」と主張した。 

 女子生徒は四月二十六日の証人尋問で、自サツを望む投稿について「神奈川県座間市のアパートで男女九人の遺体が見つかった事件のニュースを見て、ツイートした」と述べていた。 

◆SNS利用注意を 県内でも被害相次ぐ 
 女子生徒が自サツを手伝ってもらえると信じ込み、会員制交流サイト(SNS)で知り合った男からわいせつな行為を受けた、今回の事件。 

子どもや保護者の悩みに電話で対応する「県青少年SOSセンター」(岐阜市)の今井田康雄センター長は「興味本位でSNSに書き込むと、取り返しのつかないことになる。 
悩みはSNS上に書くのではなく周りの人やセンターに相談を」と注意を呼び掛けている。 

 警察庁によると、ツイッターなどのSNSを通じて知り合った相手から、わいせつ行為などの被害を受けた十八歳未満の男女は、昨年一年間に全国で千八百十三人に上り、五年連続で最多を更新し続けている。 

 県内でも被害は増えている。県警によると、SNSやインターネットの掲示板などをきっかけとした「少年の福祉を害する犯罪」の被害者数は、昨年一年間で三十六人に上り、過去十年で最多となった。 

 このうち中学生と高校生が三十一人で、全体の九割近くを占めた。法令別では児童買春・ポルノ禁止法違反(児童買春、児童ポルノ製造等)が二十二人、県青少年健全育成条例違反(みだらな性行為等)が十三人、児童福祉法違反が一人だった。 

 今井田センター長は「SNS上には、子どもたちの弱みを食い物にする大人がいる。保護者は、子どもとSNSの使い方について話し合い、気を使ってほしい」と話した。同センターは年中無休で、二十四時間対応している。 
http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20180601/CK2018060102000025.html


イギリスでサッカーが生まれた理由

「英国毒舌日記」という、イギリス在住日本婦人の書いたブログから無断転載。
まあ、宣伝になると思って無断転載は咎めないでほしい。
こうした日常の文化の差というのは、偉い著者や学者などが書かないことなので、この「足の文化」という指摘は貴重である。イギリスでサッカーが生まれたのも宜(むべ)なるかな。
なお、デスクやテーブルに平気で足を載せるという行為は西洋の映画やテレビドラマでおなじみ過ぎて、驚くことすらなくなっている。ベッドの上に靴のまま寝転がるということすらある。こういう「足の文化」は野蛮だと我々日本人の多くは思うわけだが、東は東、西は西か。



その足

6月から9月初旬までの間、夏だけのアルバイトを採用する我が職場であるが、11人書類合格して面接に来たのが3人だったため、選択肢なく3人を採用した。
3人共覚えが早く、うち2人は3年いる既存のバイトより遥かに仕事も真面目に出来るからラッキーであったが、うち1人が驚異的な不愛想で言わなければ動かない美人である。

先日、お客様を相手にしていた時の事。
私のところに老女がやってきて、「ちょっとお話しちゅうごめんなさいね。あなたのところのスタッフ、あの子ね(とバイトの子の方を向いた)、売り場の商品を足で棚に押し入れたり、足で蹴って元に戻していたのよ。あんなの見て買いたいと思う?あんな扱いを受けた商品を買いたいと思わないわ。一応、報告しておくから、ちゃんと教育して頂戴」と言われた。
見ると、そのスタッフはそ例の美人バイトであった。

多分、私が見た目年齢からマネージャーかと思われたのであろう。
「お教えいただき有難うございます」と礼を言い、私は若き24歳の店長の元に行き、2人で店内カメラを巻き戻し、その事実を確認した。
客の目の前でやっていた。
その平然とした態度から、商品を足で蹴って戻す行為に何の悪気もないと感じられた。

私は24歳に「ちゃんと証拠を見せて客からクレームが来た事を伝え、今後絶対にやらないように言いや」と言った。
24歳は実行したようであるが、「念のためスタッフ全員にも足で商品を蹴って戻すな、まして客の前で」と口頭で伝えるよう指示を出した私。
しかし24歳の店長によると、2人の20代のスタッフが「私もするけど・・・何が悪いわけ?」と言ったらしい。
引いた・・

商品を足で蹴る行為はテーブルに靴を乗せる行為動揺、「何故悪い?」に繋がっているのだろうかと考えた。
しかしながら、私にとってこの物を足で蹴る行為は職場だけではない。
子供のスイミングスクールにおいても、先生が例えば子供にビート板的なものを渡すとき、投げて渡す。
手渡しできる距離でも、わざわざ投げて床に落とすのであるが、その落としたものが子供から遠すぎた場合、必ず足で蹴るのである。
私は子供がスイミングスクールに通い始めたときから、これが非常に気になって来た。
がしかし、その行為に誰もクレームを言う事が無いという事は、ごくごく当たり前な光景なんだと飲み込んできた。
これがイギリスのやり方なんだと思うようにしてきた。

もう随分前であるが、オーストラリア人の嫁(夫の兄嫁)が私に「買ったけど要らんから、あげるわ」と言い、マフィンの入った袋を私に投げて来た事があった。
それにカチンと来た私は「私は犬じゃない。そんな見下した渡され方をして誰が喰うか。食べ物を投げるなんて最低」と投げ返してやった事がある。
嫁は驚いていたが、しかし義母は「家庭内でちゃんとした躾けを受けていない、ちゃんとしたマナーを教えられない親に育てられたのよ、あの子は。悪気はないと思うから。ただ、あなたの言う事は正しいわ」と言われた事がある。

これは躾けなんだろうか・・
それとも文化なんだろうか・・
この足癖というまさかの壁にぶつかっているイギリス生活である。

断捨離は誰のためにするのか

私は、頭の中味が江戸時代か原始時代なので、「機能的に素晴らしいもの」とか「個人で作るのが無理な、現代文明の恩恵」は、どんな安物でも使用済みの品でもとても捨てる気にはなれない。
紙切れ一枚でも、それを捨てるのは「悪事を働いている」気持ちになる。お前が、ひとりで、その紙切れを作れるのか、という気持ちが心のどこかにあるわけだ。ペットボトルの空きボトルなど、江戸時代なら宝物扱いだろう。軽くて長持ちする水筒である。酒の空きビンなどのガラス瓶も同様に、平安時代なら宝物だ。実用品であるだけでなく美術品である。インクの切れたボールペンも、そのフォルムの美しさを見ると、捨てるのに罪の意識を抱いてしまう。
私が、自分が鈍感で良かったな、と思うのは、そうしたガラクタやゴミが身近にたくさんあっても気にならないことで、美的感性の鋭い人は、そういう雑然とした部屋や家に我慢ができないのだろう。それが「断捨離」になるわけだ。だが、それは「他人に見せること」を過度に意識した美意識なのではないか。誰も見ない部屋でも、そうした断捨離による整理整頓をするかどうか怪しい気がする。





断捨離をしようとしたが素晴らしい物しか置いてないので何も捨てられん…。