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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

マスク不要論

「泉の波立ち」からの引用だが、ブログ管理人の南堂氏は、岩田健太郎の「マスク否定論」を否定する意図でこれらの記事を引用している。
だが、私は基本的に岩田氏と同意見だ。つまり、はっきりと感染している人間がマスクをするのは必要だが、感染していない人間がマスクをするのは無意味だ、そして場合によっては呼吸困難に至る有害な行為だと思っている。新コロの場合は無症状患者も多いから感染していないと思っていてもマスクをするべきだ、という意見もあるが、ナンセンスである。無症状ということは、咳もクシャミもほとんどしないということであり、飛沫感染の可能性はほとんど無いからである。そして、感染者のほとんどは無症状か軽症であり、致死率も非常に低いことも知られている。

(以下引用)

 岩田健太郎氏の著書『新型コロナウイルスの真実』(ベストセラーズ・刊)。
 岩田氏や私がよく知る小児科医をはじめ、ちょっとした外出ではマスクはしていないという医師も少なくない。
 マスクはどうしても隙間ができてしまうので、完全なる予防策ではないと岩田氏。自分に症状がなければ、する必要はないとのことだ。となれば、マスクよりも大切なのは、ソーシャルディスタンスをしっかり確保すること、という結論に至る。
( → 岩田健太郎氏に学ぶ、新型コロナウイルスを「正しく怖がる」ために必要なこと――『新型コロナウイルスの真実』 | GetNavi web ゲットナビ

 N95マスクにしても普通のサージカルマスクにしても、防御のために使う意味はありません。 「防御のためにマスクを使うべきではない」とさえ言っていいでしょう。
 繰り返しますが、少なくとも防御の手段としてマスクを着けるのは無意味だということはちゃんと理解してください。

 逆に、マスクを着けていない人が待ちの中にいても、「おまえ、マスク着けていないのおかしいじゃないか」というのも間違いです。症状がないならマスクをする必要はないからです。
 普段、街を歩くときにマスクを付けないのは全然正しい。私も街でマスクは着けていません。
 感染防御に資することのないマスクの使い方をしない。不要な場合は着けない。たとえみんなが着用しても。
 これが、感染経路を理解するということです。
( → Google ブックス 「新型コロナウイルスの真実」

 マスクの予防効果は非常に限定的、もしくはほぼないに等しいと思います。専門家の意見も一致しています。ですので、自分が感染しないためにマスクをつけることには、ほとんど意味がない。
 しかし、今、多くの国やWHOでは、街を歩く時にマスクをしてもいいと方向転換しています。なぜかというと、流行が広がりすぎて、もうみんなが感染してる可能性が高い。確定的ではないんですけど、無症状の人でも唾などが飛んで他の人に感染させるかもしれない。ですので、自分が感染している前提でマスクをつけることで、くしゃみや唾の飛沫を防ごうとする発想のもとで、そうした推奨がなされるようになっています。
 ただし科学的なエビデンスは十分ではないので、あくまでも仮説です。感染が広がって広がってしょうがないので、仕方なく作った推奨と言ってもいい。
あとは一部の政治家の人たちが強くそういうものを求めるので、科学者たちが折れたという見方もできます。
 ここで非常に大事なのは、マスクの予防効果にしても周りに感染させない効果にしても、ほとんどないか非常に弱いということ。
 もっとも大事なのは距離ですね。
距離を徹底的に伸ばすのが、いわゆる「ステイホーム」、家にいることです。家にいることが一番距離をとることになるわけで、どうしても外に出なきゃいけない人は2Mは距離をあける。マスクはその距離の代替にはなりません。距離はほぼ確実な感染の防御方法ですけど、マスクはそれに比べるとはるかにはるかに脆弱です。
 私も神戸の街を通勤で歩いていますが、マスクはみんなしているけれど、人と人との距離を離すことについては非常に無頓着な方が多い。逆だと思っています。マスクをしないのはわかるけれど、距離を取ることはしっかりやってほしい。
 周りの目がすごく厳しいという、昨今の事情も察しています。神戸大学病院は今、3日に1枚しかマスクが支給されないので、私も外に出る時はできればマスクをしたくないのですが、周りの目が厳しいので社会的にマスクをすることもあります。
 そのマスクはどんなマスクでも構いません。
ハンカチに糸をくっつけたものでも構わないし、うちの娘なんかはガーゼに刺繍をして自分で手作りをしていました。これはもう感染症学とか、微生物学とかは何の関係もないマスクですので、自分が気に入ったマスクを作ってくださればいいと思います。自作であれば洗濯して使いまわせばいいわけで、衛生的にも問題ないわけですね。これはもういわゆる「ポーズ」ですね。
( → 【全文字起こし&音声配信】「マスクの意味、アルコールの代用品、BCGの効果…神戸大教授で医師の岩田健太郎さんに聞く新型コロナウイルス感染症対策」2020年4月14日(火)放送分(TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」22時~)

 岩田教授の「マスクに感染防止効果はない」という言葉の真意は、マスクに意味がないと言いたいのではなく、新型コロナウイルスの感染経路が「飛沫」と「接触」であることをふまえれば、予防効果は
 「外に出ない>>>距離2メートル>>>マスク」

 なのだ、と言いたいことがわかります。
 つまり、「マスクに感染防止効果はない」を正確に表現するならば、「マスクに外に出ないほどの感染防止効果はなく、2メートルの距離をとるほどの感染防止効果もない。どうしてもやむを得ず、接近せざるを得ない場合の感染抑制効果しかない」ということになります。
( → 「マスクは感染防止効果があるか」議論にみる、危機マネジメントの本質 | コロナ危機を救うクライシスマネジメントの本質 | ダイヤモンド・オンライン





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介護タクシーのこと

単なる個人的メモだが、コロナ後に有望な仕事のひとつとして介護タクシーというのが考えられるが、下のコメント者はかなり詳しいようなので、転載しておく。
介護経験もタクシー運転手も経験のある人物をひとり知っているのである。
まあ、私自身は寿命が後数年と考えているので、政府赤字が安倍政権の泥棒でかさんで年金支給が打ち切られた時点で自裁すればいい。

(以下引用)

ビジネスモデルの再検討があらゆる業種で起きてますね。
介護タクシー、老齢の方の病院への送迎は、タクシードライバーの他に介護職員が同乗するのが原則らしかったけれども、病院内では看護師が介助するため介護職員は着いてしまえば帰るまで不要だし、介護資格を持ってるドライバーが介助も兼ねる介護タクシーがいいだろうということで、利便性があるらしいですね。
しかし介護タクシーは専業では経営はかなり難しいですね。自営に近い感じでしか難しいです。配車の問題ですね。
介護サービス会社の人が4条許可で1台持った上にぶら下がりで白ナンバーのタクシーを持つか、タクシー会社が介護タクシーを持つパターンがほとんどではないかと思います。白ナンバーは距離時間制なんですよね。青ナンにしろ白ナンにしろ利用者は予め予約して市区町村の割引使って利用します。以前は1ヶ月待ちなんて聞いたこともありますが。
語弊があるかもしれませんが、看護師、タクシードライバー、介護職員は並び称されるアウトロー的な感じで?現場から上がったタイプに措置業種の対応及び経営は難しいという印象。
個人タクシーはアクティブなお金持ちを顧客に持っていればたまの介護用で機会を逸失したくないでしょうし、介護サービス会社のタクシーって包括とかなんとかで料金とらないとこも実はあるんで、何というのだろう、介護タクシーは街乗りタクシーみたいに割り切った仕事とは違うのですよね。
田舎ですと介護タクシーは良さそうなのでビジネスのやり方ありそうですね。なんとか乗り切るしかない時代です。(しかしよく知らないけど田舎の介護施設って経営者はほぼ893なイメージしかなくうまくやっていくのが大変そう。)

富の不平等への不満を封じる思想

「櫻井ジャーナル」記事で、短い文章だが、この中に出てくるマックス・ウェーバーの「救済説」(おそらく、「予定調和説」と呼ばれるものかと思う。)が、地上の富の不平等を肯定する思想だ、というのが興味深い。或る意味では仏教の「輪廻縁起説」に近いのではないか。
つまり、現世で高い身分や地位に就き、富を得ている人々は前世の善行の結果なのだからそれを憎むべきではない、という思想になる。と同様に、キリスト教の予定調和説でも、現世の富裕者などは神の恩恵を得ているのだから、それを憎むべきではない、となる。つまり、富の平等化という社会主義的社会改革は不可だ、という話に導かれるわけである。どちらも実に、上級国民にとって都合のいい思想である。

(以下引用)

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 巨大製薬会社を含む利権集団の利権を脅かす革命的な薬品や医療技術が発見された場合、そうした薬品や医療技術は抹殺されるだろうことを新型コロナウイルス(COVID-19)は再確認させた。それらが革命的であればあるほど、つまり全人類にとって有益であればあるほど、そうした反応は強くなるはずだ。

 世界の利権集団は富豪の集まりである。新約聖書には「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と書かれているのだが、「宗教改革」後、違う考えが現れる。

 つまり、「神は人類うち永遠の生命に予定された人びと」を選んだのだが、「これはすべて神の自由な恩恵と愛によるものであって、決して信仰あるいは善き行為」のためではないというのだ。(マックス・ウェーバー著、大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波書店、1989年)

 この革命的な解釈変更で「強欲は善」ということになり、富豪は平穏な日々を過ごせるようになった。神に選ばれた人びとは豊かになり、選ばれなかった人びとは貧しくなるという考え方にもつながる。

 この富豪とはフランクリン・ルーズベルトが言うところの私的権力であり、そうした「私的権力が自分たちの民主的国家そのものより強くなることを人びとが許すならば、民主主義の自由は危うくなる。本質的に、個人、グループ、あるいは私的権力をコントロールする何らかの存在による政府の所有こそがファシズムだ。」

 1970年代から推進された「民営化」の目的は国家を上回る私的権力を作り上げることにあった。そうしたシステムのルールとしてTPP(環太平洋連携協定)、TTIP(環大西洋貿易投資協定)、TiSA(新サービス貿易協定)は打ち出された。「富める者が富めば貧しい者にも富がしたたり落ちる」という「トリクルダウン理論」は人びとをファシズムへと導く虚言だ。新型コロナウイルスを使い、ファシズムの世界への突破口を開こうとしている人びともいる。

政府のインターネット規制への懸念

メモとして保存。

(以下引用)前半略。

「枠組み自体を作り替える必要がある」

   IT法務に詳しい山口貴士弁護士はJ-CASTニュースの取材に、発信者情報開示請求の見直しには、「現行法は開示するかどうかの判断権を法律専門家集団ではないプロバイダやSNSに委ねているが、この枠組み自体を作り替える必要がある」と指摘する。

   その理由を「プロバイダには開示拒否に対するペナルティーはないが、不当開示に対する制裁は損害賠償だけではなく、刑事罰まである。これでは、プロバイダは自分の責任を免れるために少しでも迷えば開示しないという判断になるのは当然ではないか」と説明する。

「具体的には、プロバイダを当事者にするのではなく、当該表現が発信者情報開示請求の要件を満たすことを裁判官または独立行政委員会の前で疎明すれば、プロバイダ相手に発信者を特定するに資する情報を開示するよう命じる決定を得られるようにすればいい。刑事事件の令状に近い発想だ」

   開示のハードルを下げることで濫用の懸念もある。山口氏は「どのような表現について開示を認めたのか、一定の回数以上、発信者情報開示請求をした請求数が多い法人や個人を公開する制度を作れば、濫用対策になると思う」と話した。

   署名サイトでは、「削除等の要請に応じず被害者の不利益を拡大するプロバイダには、刑事罰を下す』との動きがある。この点を問うと「プロバイダに判断を任せると、疑わしいものは消せとなってしまい、プロバイダによる検閲が横行し、自由なインターネットは死ぬと思う」との見解だ。

   5月27日追記:コメント部分を一部変更しました

(J-CASTニュース編集部 谷本陵)

「心の貧しい者」とはどういう意味か

「カトリック東京大司教区」というところのホームページから転載。
書かれた内容のすべてに同意するわけではないが、「心の貧しい者は幸いである」は誤訳だ、とはっきり言っているところには同感する。つまり、ルカ伝の「貧しき者は幸いである」で良かったのであり、それが「革命者」としてのイエスの真意だったと私は思っている。(「革命者キリスト」は別ブログに載せてある私の昔の記事。)

(以下引用)

さて、本日のミサの福音は「山上の説教」です。誰でも知っている有名な箇所ですが、正直に言いますと難しいです。「心の貧しい人は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」これからして難しいですね。「難しい」などと言ってはいけない、「こうなのです」と言わなければいけないのですが、やはり難しいです。なぜ、「幸いである」のか。「心の貧しい人々」というのは何か。「心の貧しい」というのが、そもそも日本語ではつまずきです。「心の貧しい」というのは心がさもしいとか、がつがつしている、心が曲がっている、というように良い意味ではありません。ですから、山上の説教をするときには、説明をしなければなりません。

この箇所を直訳すると、「霊において貧しい」となるようです。ところが、並行箇所のルカ福音ではもっと端的に、「あなたがた貧しい人々は、幸いだ」と言っているのです。だから、貧しい人が幸い、なのです。これがまた解りにくいわけです。「貧しい人」は幸いとは思いません。特に今の日本の社会では、金持ちの方がいいわけです。しかし、考えてみると、たくさん持っていると、いろいろ心配なこともありますし、心がそちらの方へ奪われ、束縛され、心が豊かになれない。やっぱり持っていない方がいい。「離脱」ということでしょうか、そのように常識的に考えることも可能です。しかし、貧しければいろいろな問題があるわけでして、常識的に考えると、そんなに貧しくない方がいいと思うし、かといって、そんなにお金持ちであったら大変ですので、ほどほどに収入なり資産があった方がよいと思います。旧約聖書にも、神様にお願いする話があります。「わたしをそれほど金持ちにしないでください。そして、それほどみじめな貧しい者にしないでください。ほどほどのところでお願いします。」虫のいい話ですが、そういう祈りをささげています。イエス様のメッセージはいろいろなところで常識と合いません。合わない、というところが大事なのです。合わないのに、合っていると思って、無理矢理自分を納得させるとかえってよくないと思います。

実は今日、ここでお話しするので、幸田神父様はどう話されるのかなあと、彼がホームページに載せている「福音のヒント」をちょっと拝借しようと思って見ましたら、良いことを言っています。ホームページを閲覧できる方は見てください。「心の貧しい」という言い方は非常にまずい、誤訳といっていいくらいだ、と彼は言っています。「心が貧しい」という日本語は確かに、本当の意味を伝えないのです。むしろ「心」がない方が分かり易いです。イエスの周りに集まったのは貧しい人々でした。経済的に貧しかった人、病気の人、障害を持っている人、寄る辺のない人、なんら社会で自分を主張する手だてがない、惨めな、見捨てられた、後回しにされた、本当に情けない気持ちで生きていかなければならない人たちでした。そういう人に向かって、「あなたがた、貧しい人々は幸いだ」。全然幸いではない、この人たちは幸いだとは思っていません。幸いでない人たちに向かって、「幸いだ」と言い含めるのはインチキではないか。(宗教はインチキ臭いところがあるわけです。)

なぜ、イエスは「幸いである」と言ったのか。マタイの「天の国」は、「神の国」と同じです。普通は「神の国」=神の支配、神の支配が行われる、神が王として支配される、と説明するわけです。「神様は、あなたがたのことをよく分かっている。あなたがたは、神様の子どもであり、あなたがたの苦しみ、悩みを放っておかれるはずがない。神の国はすでに到来した。そして、神の国は完成する。その神の国に真っ先に入るのはあなたがたなのだ。」 「心の貧しい」というのはまずいので、日本語のいろいろな翻訳を見ると、「自分の貧しさを知っている人は幸い」と訳している場合もあれば、「神にだけ寄り頼む人は幸い」と訳しているものもあります。神様にしか頼れない、他のものに頼ろうと思っても、お金も、地位も、何もない。神様はそういう人を助けるのだよ、そういう人を大事に思っているのだよ、だから、あなたがたは幸いなのだと。逆に言うと、わたしたちの信じている神は、そういう神様なのだということです。

旧約聖書には「残りの者」という考えがありますが、排斥され、今にも根絶されそうな人たちが最後に残った。その残りの者から救い主、メシアが来られて、イスラエルを再興してくれる、という信仰があったようですが、イエスは、その残りの者の考え方をもっと深めて、神様というのは、本当に貧しい人、弱い人、惨めな人の神様なのだ、ということをおっしゃいました。そして、そういう人々と一緒に歩まれ、最後はご自身、最も貧しい者として十字架にかけられました。そして、そのイエスを天の父は復活させられました。そういうイエスのメッセージを、そしてその生涯を、わたしたちは福音として信じています。