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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「遺伝子写真」のインチキ

「混沌堂主人雑記」の引用記事の一部で、他の部分にはあまり共感できないので載せない。
「遺伝子写真」がインチキだ、というのは、もっと多くの人が知るべきだろう。
ただ、「遺伝(遺伝子)」そのものが無い、という説には同意できない。子供が親に似るのは歴然としているし、現在では遺伝子改変作物が溢れかえっているではないか。

(以下引用)

https://x.com/purplep76858690/status/1526715689213435904?cxt=HHwWgICpiZP1_a8qAAAA
DNAは生きた人の体内から発見されたものではない。(1)

DNAは生きた人の体内から発見されたものではない。(1)
トム・コーワン医師:
DNAの発見に関しては、DNAが二重螺旋であるというオリジナル画像があるとされています。
実際には核を脱水させ、そして葉酸で迅速(簡易抽出法により)抽出し、それを62時間連続でX線照射を行っているのですよ。驚きでしょう?
それでできたX線写真のような画像には、X染色体のようなものが見えるのですが、「これが二重螺旋です!」と言っているのです。
冗談でしょう?と言いたいですよ。それは全く(発見とは)無関係でしょう。生きた人の体内から発見されたものではないのですから。
こちらも書き起こししました。
https://x.com/purplep76858690/status/1578253378488258560
DVA ロザリンドフランクリン(1)
トム・カウワン医師:
DNAの概念全体が、私にはかなり怪しく見えるのです。と言うのは全てがある写真が元になっているからです。それはロザリンド・フランクリンという女性が1952年に撮影したものですが、(1920年から1958年、英国物理科学者)これについては、あまり突っ込んだ話はしませんが、それはカピカピに乾いた核の写真で、その核は62時間連続でX線を照射したものです。
x線を62時間連続で浴びることを想像してください。そこにはいわゆる「回折パターン」が見えると言うのです。つまり、スクリーン上に点のようなものがあると言うことです。そして彼女は、「これがDNAとその2重螺旋であり、その理由は回折パターンが見られるから」と主張したのです。
これはもうとんでもない話ですよ。結論としては、1850年代以降に登場した「細胞説」や近代的な調査方法が、私たち人間が見ているものを根底から変えてしまいました。そこが問題なのです。。「何をしても見えるものは変わらない」と言う思い込みは、全く馬鹿げていますね。
これでわかってくるのが、以前から記事にしているように、コロナワクチンにはmRNAは入っていないということです。だってRNA自体が嘘なんだから。当然スパイクタンパクも嘘。スパイクタンパク自体は自然界には存在しません。
purplepearl(リーシャ)@purplep76858690
トム・カウワン医師
遺伝学という概念には致命的な欠陥がある。注射の成分とされるmRNAの一部が、打った人のDNAに挿入され、いわゆる「スパイク・タンパク質」を永久に作り続ける確率はゼロである。それは単なる生物学的空論に過ぎない。mRNA接種者の血液を直接分析したことを示す論文は存在しない。
https://x.com/purplep76858690/status/1618489230375915522
トム・カウワン医師とステファノ・スコリオ博士の対談④
「人工ウイルス」も「スパイク・タンパク質」も作り話。接種者が「スパイク・タンパク質」を未接種者に感染させる危険性がある、と「警告」するのは、結果的に恐怖や不安を煽ることに繋がる。恐怖は最大の脅威であり、平常心を保つことが肝要。
https://x.com/purplep76858690/status/1607971843654430720
RNAをDNAへ転写する逆転写酵素を発見したことで
ノーベル賞を受賞したデイビッド・ボルティモア博士の
インタビュー記事はこちら↓
https://cocorofeel.blog.fc2.com/blog-entry-25220.html
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ズッキーニのレシピ

レシピの一部のみ転載。明らかに不味そうなのは省略。

「ズッキーニ」は、カボチャの仲間で栄養価が高く保存が効く今が旬の夏野菜。フライやチーズ焼き、パスタなど、洋食の印象が強いですが、ナムルや煮びたしなど様々な料理&味付けに合う万能野菜なんです!

【ズッキーニ】人気レシピ40選~ナムルや炒め物、パスタやフライなど大人気レシピを調理法別にご紹介!© E・レシピ

そこで、この記事ではズッキーニを使った人気レシピを調理法別に40選ご紹介します。

・ズッキーニの栄養と調理法

お肌をみずみずしく保ち、風邪予防にも効果的なビタミンCやカロテンを豊富に含んでいます。100gあたり14kcalと低カロリーなのも嬉しいですね。

ズッキーニは生食可能です。スライサーで細長く切ってパスタ代わりにするとダイエットや糖質制限中の方も安心して食べられます。細長い形を生かして半分にスライスしたり、煮込みでトロトロの食感が味わいます。

■素早くできるソテーなど【炒める・焼くレシピ14選】

ズッキーニをシンプルにソテーした殿堂入りの人気レシピ。ズッキーニのホクホク食感を味わってください。

炒めてホクホク!ズッキーニのシンプルソテー

炒めてホクホク!ズッキーニのシンプルソテー© E・レシピ

【材料】(2人分)

ズッキーニ 1本

サラダ油 大さじ 2

ミルびき岩塩 適量

【下準備】

1、ズッキーニは厚さ1cmの輪切りにする。大きければ半月切りにする。

炒めてホクホク!ズッキーニのシンプルソテーの下準備1© E・レシピ

【作り方】

1、フライパンにサラダ油を中火で熱し、ズッキーニを並べ、途中で返しながら火を通す。ミルびき岩塩を振り、器に盛る。

炒めてホクホク!ズッキーニのシンプルソテーの作り方1© E・レシピ

・「炒めてホクホク!ズッキーニのシンプルソテー」のレシピ

・鶏とズッキーニのガーリックソテー

【ズッキーニ】人気レシピ40選~ナムルや炒め物、パスタやフライなど大人気レシピを調理法別にご紹介!© E・レシピ

鶏肉から出る旨味をズッキーニがキャッチした一品は食べ応え満点で栄養価も高いおかずになります。

・「鶏とズッキーニのガーリックソテー」のレシピ

・オーブントースターで簡単ズッキーニのアンチョビチーズ焼き

【ズッキーニ】人気レシピ40選~ナムルや炒め物、パスタやフライなど大人気レシピを調理法別にご紹介!© E・レシピ

ズッキーニにアンチョビ、チーズをのせてトースターで焼くだけで完成の時短レシピ。保存が効くアンチョビはストックしておくと便利です。

・「オーブントースターで簡単 ズッキーニのアンチョビチーズ焼き」のレシピ

・ズッキーニの豚肉巻き

【ズッキーニ】人気レシピ40選~ナムルや炒め物、パスタやフライなど大人気レシピを調理法別にご紹介!© E・レシピ

アスパラベーコンのようにズッキーニを豚肉で巻いた一品はビールに合います!これからの季節に最高ですよ。

・「ズッキーニの豚肉巻き」のレシピ

・ズッキーニの肉詰め焼き

【ズッキーニ】人気レシピ40選~ナムルや炒め物、パスタやフライなど大人気レシピを調理法別にご紹介!© E・レシピ

ピーマンの肉詰めのようにズッキーニをくりぬいてひき肉を詰め込みます。肉汁をズッキーニが吸い込んで食べ応え満点です。ごはんにも合います。

・「ズッキーニの肉詰め焼き」のレシピ

・ズッキーニのカレー炒め

【ズッキーニ】人気レシピ40選~ナムルや炒め物、パスタやフライなど大人気レシピを調理法別にご紹介!© E・レシピ

熱したフライパンにオリーブ油をひき、ズッキーニと玉ネギを炒めます。仕上げにカレー粉を入れたら完成です。手早くできるので後一品欲しい日にオススメです。

・「あともう一品に!ズッキーニのカレー炒め」のレシピ

・豚肉とズッキーニの中華炒め

【ズッキーニ】人気レシピ40選~ナムルや炒め物、パスタやフライなど大人気レシピを調理法別にご紹介!© E・レシピ

火を通してトロッとしたズッキーニがたまらない中華炒めは、ピリ辛でコク旨なのでごはんが進みます。

・「ピリ辛コク旨!豚肉とズッキーニの中華炒め」のレシピ

・ズッキーニとナスのアンチョビ炒め

【ズッキーニ】人気レシピ40選~ナムルや炒め物、パスタやフライなど大人気レシピを調理法別にご紹介!© E・レシピ

仕上げにしょうゆを回しかけ、香ばしさを加えるのがポイントです。アンチョビは焦がさないように炒めましょう。

・「ズッキーニとナスのアンチョビ炒め」のレシピ

・味付けは塩だけ!鶏とズッキーニのガーリックソテー

【ズッキーニ】人気レシピ40選~ナムルや炒め物、パスタやフライなど大人気レシピを調理法別にご紹介!© E・レシピ

味付けは塩のみ!鶏の旨味を吸い込んだホクホクのズッキーニはクセになりますよ。

・「味付けは塩だけ!鶏とズッキーニのガーリックソテー by 保田 美幸さん」のレシピ

sureの意味は「確実だ」か「確信がある」か

まあ、本当にこの通りかどうかは分からないが、一応の説明ではある。
なぜ、疑いがあるかというと、たとえばsureというのは「確実である」が主意で、「確信がある」とは違うのではないか。つまり、会話での「sure」は「it's sure」であって、「I am sure」とするのはおかしいのではないか、と私は感覚的に思うわけだ。もちろん、I am not sureとは言うが、それも、「私の発言(考え)は確実ではない(確実と断定できない→確信できない)」の意味だろう、と私は思う。これは、野球などで「シュアなバッティング」を「確信的打撃」とは訳さないことからの考えだ。
たとえば、「(Sure?)Is it sure?」は、相手が「確信しているかどうか」ではなく、相手の発言内容が「確実かどうか」を聞いているわけである。
もちろん、英和辞書だと「確信する」を最初に置いてあったりするが、だからといってそれが「第一義」だとは私は思わない。辞書編纂者の独断ではないか。

(以下引用)

「For sure」 と「Sure」と「Yes」と「Of course」の違い

英語で会話をしていると「For sure」という返答をよく聞きますが、「Sure」「Yes」「Of course」とはどう違うのでしょうか?


使うタイミングとそれぞれのニュアンスの違いを整理してまとめました。

目次[表示]

「For sure」の意味と使い方

「For sure」を口語として会話の中では相手が言ったことの返事として使い、状況に応じて以下のような意味になります。

  • 確かに
  • もちろん
  • はい
  • わかりました

「For sure」「Sure」「Yes」「Of course」の違い

「For sure」「Sure」「Yes」「Of course」は日本語に訳すとどれも同じような言葉になってしまいますが、ニュアンスに違いがあります。

特に「Sure」「Of course」は、間違った理解で使うとトラブルになりやすいので、それぞれ意味の背景を整理しておきましょう。

「Yes」

「Yes」は1番シンプルな基本の肯定表現で、特別な感情や個性が入る余地がありません。

「Sure」

「Sure」はI am sureを略した表現で、話す人の確信が含まれた肯定になります。

「For sure」

「For sure」は文中では話されている物事に対しての確信になり、会話の中で使われる場合sureとほぼ同じ意味で使われます。

「Of course」

日本語訳してしまうと違いがわかりにくいですが、「Of course」はSureとだいぶ性質が違いますので、本来の意味の違いから整理しましょう。

    • 「Sure」には「確信している、確かな、間違いない」という意味
    • 相手の意見や依頼に対して賛同する意を込めた肯定

  • 「Of course」は「とるべき(正しい)方向にある」という意味
  • 相手の意見に対して「当然」「当たり前」という意味を込めた肯定

ものすごく極端に差を表現すると、同じ「もちろん」と訳されてもその背景にある気持ちは大きく違います。

  • 「Sure」:おっしゃる通りです。かしこまりました。
  • 「Of course」:そんなの当然でしょ。言われなくてもわかってるよ!

例えばレストランで注文したときに、ウェイターが「Sure.」と返事することがあっても、「Of course.」と返答することはありません。

また、「Of course.」には当然という意味が含まれるので、自慢するようなニュアンスになる場合もありますし、 自分にとって当然でも相手にとって当然でない物事に対する返答に「Of course.」を使ってしまうと相手を不快にさせてしまう場合があるので注意しましょう。

「原理研究会」の洗脳の手口

平凡人が、常識で考えてもとうてい受け入れられない奇妙な教義を、なぜ「優秀な」大学生たちが信じ込むのか、というのは不思議であるが、下のような要領らしい。
学校秀才というのは、案外「世間の常識」を知らないし、人間の判別ができないものだ。当たり前である。四六時中机に向かって勉強して一流大学に入るのだから、実は「世間的には無知・無能」な人間が多くて当然だろう。

(以下引用)


概要[編集]

発足直後の1960年代以降に社会問題になり、複数の事件・訴訟が発生した。原理研に加入した学生は学業を放棄して活動に熱中し、帰宅せず教団関連施設に泊まり続けるようになった。さらには親に「金を出さなければ親子の縁を切る」「遺産の前渡しだ」などと寄付金を要求し、要求が受け入れられないと断食をしたり、「サタン」と親を罵ったり、「殉教する」と自殺をほのめかしたりと、異常な言動をするようになり、「家庭破壊」の被害が続出した。原理研の活動は、路上での布教や募金活動を不眠不休で行うなどの重労働で、過労で入院する学生も多かったという。原理研の運動が盛んだった早稲田大学では、大学側は学生に対し学業に復帰するように要請するも、布教に専念するために退学に至る学生も現れた[4][5][6]

学生の中には精神異常に陥る者も少なくなかったとされ、1969年に教団に入信した宮城学院女子大学の学生は、両親を「汚れている、サタンだ」と罵る様になり、そのうち幻聴、幻覚と見られる症状が見られるようになった。彼女はたびたび錯乱状態に陥り両親はそのたびに精神科に入院させた。彼女のグループの同世代の女性信者には入水自殺するものもいたという。原理研による家庭崩壊の被害に遭った親らは、「原理運動対策全国父母の会」を結成、渋谷にある統一教会本部前で「わが子を家庭、学校に返せ」などのプラカードを掲げてデモ行進を行った。当時の父母の会が、日本弁護士連合会人権擁護委員会に提出した調査統計によると、全国119名の調査対象者のうち、行方不明は32人、死亡者は3人、精神異常は49人、家出状態は90人に達していた。この統計は調査表に回答した分のみであり、父母の会が把握している被害者はさらに多いとされた[7][8]

このような異常状態に陥る学生が多発していた背景には、修練会での激しい教義の叩き込みがあった。1975年2月に『東京新聞』に掲載された元信者(25)の手記には、教団の教典『原理講論』の堕落論を説かれた時に、体に衝撃波が走り、講師の声が天の声のように降り注いだかのような感覚に襲われたと記されている。彼女が誘った知人は錯乱状態に陥り、大声を張り上げ、裸足で修練場から走り出した[7]

修練会では、数週間にわたって拘束され、人間は罪の塊であると叩き込まれ、罪の意識を植え付けるように徹底される。このために講師が熱弁を振るい、断食をさせた上で、深夜まで祈祷もさせる。その上で救いの手段として、再臨のメシアに清められた神の子にならなければならない、神の子同士が結婚をして、神の子を産み、理想の社会を作らなければならない、と教え込む。人間を恐怖で限界まで追い込み、各種の手法で脳機能を低下させた上で、特定の暗示を植え付ける修練会での手法は「洗脳」の典型とされる[7]

原理研究会は国会でも問題視され、1977年2月7日の衆議院決算委員会で石橋政嗣が、当時の総理大臣であった自民党福田赳夫に対し、「原理運動被害者父母の会」が内容証明で請願書を送付したことに触れている[9]

入信者のほとんどは、かつて親に心配をかけたことのない純真な若者たちばかりであるが、入信してからは強烈な教義をたたき込まれ、学業、職場を放棄して家出し、集団をつくり、戸別訪問での押し売り、街頭での強要、募金活動、見知らぬ異性との集団結婚、海外渡航等を実行し、悲嘆に暮れて説得を繰り返す親兄弟を悪魔と呼ぶ始末である。そして、その中の多くの若者は身体衰弱、精神錯乱、自殺、行方不明となり、先般はアメリカで殺害されるという事件も発生しているというのである。ところで、この運動は、韓国人文鮮明なる者を教祖とするもので、キリスト教を原理教義としているが、あらゆるキリスト教団は、この教義はキリストを侮辱し、ねじ曲げた驚くべきものと非難しているのである— 1977年2月7日の衆議院決算委員会での答弁より[9]

現在でも多くの大学は「原理研究会」への注意喚起を公式に発信している[10]上智大学は「巧妙な手段を使ってキリスト教の学校や諸機関にまぎれこみ、騙された人を引きずりこんで、あちこちに被害が出ています」としており、青山学院大学は「サークルのふりをした危険な宗教団体」として、一般的なキリスト教の教えと大きな隔たりがあると、警告を発している[11][12]

「進化論」と「適者生存」の名称について

「阿修羅」からの孫引き転載である。
私も、進化論もビッグバン説も否定する者だが、進化論については、少し考えが変わってきて、進化論が誤りというより、名称と、その利用のされ方、つまり「進化」という言葉と、「適者生存」という思想が悪用されすぎたと思っている。これは欧米人の世界侵略のバックボーンとなった「白人優位説」に利用されている。
「進化論」を「遺伝子変化論」とすれば、この説はもっとまともになるだろう。つまり、遺伝子改変植物が現在では普通になっていることから見て、「遺伝子は変化する」あるいは「変化可能である」わけで、それは「進化論」と同じ思想だと言える。問題は、それが「進化」だとは限らないことだ。必ずしも「適者」が生存するのではなく、単に「生存したものが適者だとされる」だけのことである。白人が世界を征服したとしても、それは白人が優秀だったのではなく、邪悪さの度が圧倒的だったわけで、それは南米征服の邪悪さを見れば明白だ。あるいは東洋の植民地化の実態を見れば明らかだ。善と悪の闘争において、悪はすべての行為が可能なのに対し、善には悪が為せないのだから、悪の勝利は当然なのである。生物一般に関しては、生存は偶然的要因がほとんどだろう。

(以下引用)

「すべての学校教育からダーウィンの進化論を排除せよ」…という理想的な動きが、イスラエルやトルコ、インドなど各国で迅速に進行中 INDEEP

英国ガーディアンのオピニオン記事より

theguardian.com

あまりにも粗雑な「進化論」という説はそろそろ全世界が完全に放棄するべき


私は、この数年ずっと進化論に完全な反対の意見を持つ人間ですが、その理由は、単純なことで、「合理的に進化論はあり得ない」というだけです。


まともな思考なら、進化論で語られるようなことが起きる可能性はゼロだと私は思っています(ゼロに近いのではなく)。


そういえば、今年 6月には以下の記事で、進化論の根底が崩壊しつつある可能性が示されていることをご紹介しました。


もちろん、こんな程度のことでは進化論は揺るがないことも、この記事を書いた時からわかっていました。


何しろ、今の科学と科学者たちの存在の「根幹を支えるものは進化論(とビッグバン)」であり、進化論とビッグバンを否定するものは、どの国であっても、科学界のサークルにとどまれないはずです。


私が進化論というものが「あまりにも粗雑な理論」だと知ったのは、故フレッド・ホイル卿の著作を数年前に偶然手にしたことが大きいのですけれど、ホイル博士は、先ほど書きました、


・進化論
・ビッグバン


を両方否定したことで、科学界で一種の「葬られ状態」を経験しています。


ホイル博士と共に同じ研究をした2人がノーベル賞を受賞する中、研究の筆頭だったホイル博士だけが、受賞されなかったのです。


これについて、フレッド・ホイル - Wikipedia には、こう書かれています。

ホイルの元々の貢献は何らかの理由で見落とされた。


ホイルのような著名な天文学者の業績が受賞の対象とならなかったことに対して、多くの人々は驚いた。


「何らかの理由」といいますけれども、定食屋の納豆につけるカラシをつけ忘れるのとは訳が違うのですから、「何らかの理由」ではなく「明確な理由」があったはずです。


このことが起きたのは 1983年のことですが、このことは、他の科学者たちへの大きな警告、あるいは見せしめとなったはずです。

「進化論を否定するものは同じようになりますよ」

というメッセージだったとも言えます。


このあたりに関しては、ずいぶん以前に書いたものですが、


科学者たちの「神」の意味
 In Deep 2012年07月05日


という記事の中盤くらいの

新しい「神」を数百年以上求めて続けてきた科学界


というセクションに少し書いています。
まあしかし、ホイル博士は、科学界からどういう扱いを受けようと、自分の考えを曲げずに研究と執筆を続けていてくれていたからこそ、私は「進化論の真実」を知ることができたのですから、それはそれでいいのだと思います。
 
さて、今回は冒頭の英国ガーディアンの記事をご紹介したいと思います。
これは、ロンドン自然史博物館の館長であるマイケル・ディクソン(Michael Dixon)さんという方が、ガーディアンに寄稿したものなんですが、私はこれではじめて知りましたが、今いくつかの国で、

「ダーウィンの進化論を完全に教育プログラムから排除する」


という動きが進んでいるのだそうです。


記事に出て来るのは、イスラエル、トルコ、インドなどとなっています。
何とも羨ましい限りの話ですが、ロンドン自然史博物館の館長さんは、この動きに対して、猛烈に抗議しているわけです。
 
記事をご紹介した後に、過去記事などを含めて、捕捉などを書かせていただきたいと思います。
なお、この「進化論に対しての嫌疑」は、ロシアの科学界でも以前からくすぶっていますが、今日(12月10日)、ロシアのメディアを見ましたら、下のような記事がありました。

12月10日のロシアのメディアより

earth-chronicles.ru

内容はビデオで説明されていて、ロシア語のビデオは理解できないですので、詳しい内容はわからないですが、「最近どんどん積み上がる進化論が間違っている科学的証拠」を取りあげているもののようです。


西欧の科学界とそれほど密接ではない国や地域では今後、脱ダーウィンの動きは進んでいくかもしれません。


では、ガーディアンの記事です。




The removal of Darwin and evolution from schools is a backwards step
Guardian 2018/10/03


ダーウィンの進化論を学校教育から排除する動きは学問の後退を意味する


進化論は、根拠に基づく地球の生命に対しての唯一の説明だが、いくつかの国々では、その説に背を向け始めている


最近、イスラエルとトルコの両国において、チャールズ・ダーウィンの進化論が学校のカリキュラムから消え去ったという驚くべき報告があった。


トルコでは、進化論は高校生の理解を超えているとして進化論が高校の教育から消えた。イギリスで進化論は小学校から教えられている。


イスラエルでは、ほとんどの生徒が進化論を学んでいないと教師たちが主張している。イスラエル教育省は教師たちに対し、生物学では進化論ではないテーマに焦点を当てるように促しているという。


これに関しての驚くべきニュースは今年初めにもあった。インドの教育担当大臣が高等教育について発言した際に、「ダーウィンは科学的に間違っている」と主張したのだ。さらに大臣は、「人間は進化したサルではない」とも述べた。


そして、この大臣は、インドの高等教育カリキュラムから進化論を削除するように求めた。


進化論は、ダーウィンによる自然科学への最大の貢献であるという事実がある中での、これらの最近の進化論への攻撃や嫌悪は興味深い。


結局のところ、他の科学理論で、この進化論に対してと同じレベルに達するような異議や反感が出されるものは、少なくとも過去 150年では存在しない。


しかし、進化論を否定するということは、自然界の科学的理解を向上させる特別な意味と、さらには、自然界を将来的に最善に保護するための最善の方法を排除してしまうことでもあるのだ。


ダーウィンの進化論は、すべての生物科学を支えるだけでなく、膨大な予測力を持っている。


抗生物質への耐性菌の出現を理解するためにも進化論は必要だし、地球温暖化に対応する方法にも、あるいは新たな害虫への対策や、持続可能な食糧源の探索のためなど、人類の繁栄は、進化論的な証拠によって決定されているといっていもいいのだ。


ロンドン自然史博物館には、27億年以上前の化石から 2018年に採取された標本までの 8000万以上の標本のコレクションがある。ここには世界各地から数千人の研究者たちが毎年アクセスする。
このコレクション群は、生命の形態と多様性の両方の変化を何百万年にもわたって測定できる重要な基盤のデータを提供しており、過去と現在の生命の幻想的な多様性と分子生物学の構成は、明確で具体的な進化の蓄積された証拠だ。


しかし、それでも、今なお、進化論が疑問視されることがある。


宗教的な理由で反対される場合を除けば、進化論に対して嫌疑を持つ人たちは、進化論がもつ壮大な規模を想像できないのかもしれない。進化論を理解するためには、非常に長く深い時間の概念を受けいれなければならない。これはきわめて巨大なものだ。


ダーウィン自身はこう言っている: 「とてつもない長い年月のうちに、私たちには理解できない無限の世代がお互いに(進化に)成功したに違いないのだ!」。


また、この進化論の「論」という言葉も部分的に非難されることがある。


すなわち、この進化論が、ダーウィンによる直感や推測であるかのような意味でとらえられることがあるからだ。つまり「すべては実質的な証拠がない」と説明されてしまうことがあるのだ。


しかし、19世紀後半に進化論が登場して以来、進化論への反証は数多く出ており、世界中の何万人もの科学者たちが様々な科学分野で厳密に検証してきたのだ。それによって、今では進化論は、反証することのできない科学的法則とみなされる。


各国で現在進んでいる、この進化論という重要な科学的概念を排除しようという暗黙の試みに私たちはどのように対応するべきだろうか?


私たち自身はもちろん科学のカリキュラムの中核として進化論を学校で教え続けなければならないことは当然だが、科学的な証拠と合理的な議論を守るためにも、私たちは、進化論を排除しようとしている国々に話しかける必要がある。


しかし、これらのこと以上に、私たち大人は、子どもたちの科学と自然多様性への好奇心に火をつけなければならない義務を持つ。子どもという存在は、驚異的な好奇心を持った存在だ。


私たちは、これからもダーウィンの遺産である進化論を擁護し続ける。


進化論こそが、地球上の叙事詩的で素晴らしい多様性の証拠に基づく唯一の説明なのだ。




 


ここまでです。


私、実は訳しながらちょっと笑ってしまっていまして、どうしてかというと、このロンドン自然史博物館の館長さんの科学への対しての熱意はとても伝わるのですが、その一言一言のあとに、館長さんは、


「だから、進化論は大事なのだ」


ということを言いたいのだと思いますが、私はこの館長さんの言葉のすべてに対して、その逆、つまり、「だから、進化論は全面的に排除されるべきだ」と考えながら訳していたので、笑ってしまったのです。


たとえば、

「私たち大人は、子どもたちの科学と自然多様性への好奇心に火をつけなければならない義務を持つのだ」


とおっしゃっていますが、私は心の中で、

「そうだ、子どもの好奇心に火をつけるためには、進化論は排除されるべきだ」

というように即座に反応しながら訳していて、結局ずっと笑いながら訳していました。最近こんなに長くニヤニヤできたのも久しぶりですので、まずは館長さんにお礼を申し上げたいと思います。


 


それにしても……。


館長さんは、「進化論はあまりにも壮大な時間的な流れを持つ説で、みんなそれが理解できないのだ」というようなことをおっしゃっていますけれども、実際には、私たちのこの現実を進化論で語るのは「無理」なのです。


たとえば、記事の中で、館長さんは、


「進化論を理解するためには、非常に長く深い時間の概念を受けいれなければならない」


とおっしゃっていますが、その「地球の歴史」というのは、今の科学が正しければ、30億年だとか 40億年だとかじゃないですか。


いいんですよ、10億やそこらの違いは。


何しろ、

「生命の構成の緻密さは、そういう数で説明できるものとはレベルが違う」

のです。


地球の歴史が 1000兆年でも同じで、それでも進化論ではその可能性は説明できない。


たとえば、私たちの体の中のタンパク質の中の「酵素」というものがあります。


この生命の小さいな小さな1部分が「偶然に作られる」としたら、その確率がどのくらいになるか想像できますでしょうか。


これは、私にそれらあたりのことを開眼させてくれた、フレッド・ホイル卿の著作『生命はどこからきたか』にあります。

フレッド・ホイル / チャンドラ・ウィクラマシンゲ共著『生命はどこからきたか』 第14章 より

30個の不変なアミノ酸を持ち、100個の結合部分からなる短いポリペプチド鎖でさえも、20の 30乗、約 10の 39乗回にもなる試みが行われて初めて機能を持つ酵素となる。


300個の不変部分を持ち、1000個の結合部分からなる酵素の場合は、要求される試みの回数は 20の 3000乗で与えられ、それは 1の後に 0が 390個も並ぶ数である。


さらに、われわれはただ一種類の酵素だけを取り扱うのではなく、最もシンプルな有機体でさえ 2000種類、われわれのような複雑な生物では約 10万もの酵素と関係しているという点でも超天文学的な数である。

この説明だと難しいですが、要するに、


「酵素ひとつが偶然にできる確率」


は、下のようなゼロが並んだ後の「分の 1」となるのです。

酵素が1個偶然に生じる確率


こうなりますと、たとえばの話ですが、「酵素 1個が地球に偶然登場するのに、1000兆年 × 20回くらい必要となる」のです。


そして、人間というか、高等生物の身体というのは、このような酵素が「 10万などの桁で関係している」わけです。


ですので……たとえば…… 1000兆年を 1000兆回くらい繰り返すという時間があるなら……アミノ酸の 1つくらいは偶然に生まれる可能性が……いや……ないですね、やはり。


まして、単細胞であろうと高等生物であろうと、生物の登場なんて……。


どこまで夢物語かと。


 


この「生命のあまりにも精緻で構造を知ってしまってから、進化論を本心では信じることができなくなる科学者たちは多い」はずです。


特に、最先端の生物科学や遺伝子研究などをされている方々は、この地球の生命というものは、どんな小さな、たとえば単細胞生物、あるいはアミノ酸ひとつにしても、


「何という奇跡の存在なのか」


というようなものであることを知っています。


もちろん、先ほど書きましたホイル博士が受けたような「見せしめ」の問題があるために、それを表面に出すことはあまりないでしょうが、高度な研究をされている科学者たちの著作を読むと、そのことに若干ふれているくだりは随所で見られます。


それはともかく、現実としての地球の生命存在には、進化論のような粗雑な概念が入り込む余地はないのです。


さらに最近では「異生物間の共生関係」が次々と明らかになっていて、腸内細菌と人間の関係などもそうですが、この地球に満ちている奇跡的な生命構成と生命同士の関係性は、ダーウィンの進化論などというものでは、まるでひとつも説明できないということはどれだけ強く言ってもいいと思います。


私は以前からたまに書きますが、進化論とビッグバン理論が完全にこの世から消えない限り、本当の意味で、人類に幸せが訪れることはないと思っています。


大げさに聞こえるかもしれないですが、本気でそう思っています。