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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

賃貸と持ち家

不動産屋が商売抜きの本音で書いた文章だろう。
常識的に考えたら当たり前のことなのだが、賃貸のほうが人の出入りが激しく、その斡旋で儲けるので、不動産業者は(記事スポンサーとして)賃貸が有利だという記事を多く雑誌に書かせるのだろう。

(以下引用)

一生賃貸と持ち家では、高齢になったときの選択肢や安心感が圧倒的に違う。

住宅は、利便性が高く、価格が下がりにくく、災害に対しても安全な場所に優良物件が適正価格で買えるのであれば、できるだけ買っておき、老後には住宅ローンの返済が終了している状況をつくっておいたほうがよいというのが、長い間、不動産実務に携わりたくさんの人たちの人生を見てきた上での感想だ。

ずっと賃貸で暮らし続ける(=一生賃料が出ていく流れがある。「フロー」)のと、正しい買い方で購入した持ち家を所有する(= いずれは住宅ローンという大きなお金が出ていく流れは終了し、固定資産税や管理費等のみの最小単位になる。「ストック」)のとでは、高齢者になってから、いや、高齢者になる前に圧倒的に差が出ることが経験的にわかっているからだ。

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「セカイ系」とは何か

とある評論の一節で、書いてあることが妥当かどうかは別として、「セカイ系」という、昔から気になっていたが今でも理解できない言葉の説明らしきものがあるから転載した。
私の印象では「世界系」ではなく「セカイ系」と表記されているのは、揶揄であり、その「セカイ」は本物の世界ではありませんよ、という指摘を含意していると思う。つまり、「妄想系」だろう。普通なら妄想で終わる事柄が、作品中では実際の出来事となるような作品を「セカイ系」と言っていたのではないか。いや、これは私の独断でしかないのだが、下の定義にはあまり納得できないのである。
つまり、ここでの「世界の危機」とは、要するに「作品内世界の危機」でしかないのだから、やはり「セカイ」と揶揄されることになるのだと思うわけだ。つまり、「近景」が「中景」と関係を持つことなく「遠景」と接続される、というもっともらしい分析的表現ははたして妥当なのだろうか。小説や漫画やアニメの中で、はたして中景というのはそれほど重要な要素だったかと言えば、そうだとは思わない。繰り返すが、要するに「セカイ系」とは、「妄想的事態」が作品内の「世界」になることではないか。「妄想的事態の現前化」が本質なのであって、「世界の危機」がはたして「セカイ系」の必須条件かどうか疑わしいと私は思う。広義で言えば、あらゆるフィクションはすべて「セカイ系」だとも言えるのではないか。
あのころ「セカイ系」と言われた作品を私はよく知らないが、「近景(日常的世界)」が妄想性や飛躍性を持つこと(それは世界を「遠景」とすることとは別のものだろう)が「セカイ系」のような気がする。まあ、要するに「近景」「中景」「遠景」という言葉に私は無理さを感じるわけである。むしろ、現実と非現実の表裏が入れ替わるのがポイントなのではないか。


(以下引用)

セカイ系とは、アニメやライトノベルやゲームの分野で、おもに2000年代初頭以降に流行った世界観のこと。自分の心境や自分を取り巻く狭い範囲の状況(近景)が、コミュニティや他の人々(中景)との関係性が描かれることなく、世界の危機(遠景)に直結している、といった定義が一般的だ。

やや強引にこの構図を当てはめるなら、繊細な彼らはネットを通じて、自分のお気持ち(近景)が、大文字の“社会”や“マスコミ(遠景)”と、直結してしまっている。

日蓮宗とは何か

私は日本の仏教の区別が分からないし、その中で特に日蓮宗の他宗排斥の理屈が分からないので調べてみたが、それでも今ひとつ分からない。他宗の何が問題なのだろうか。
創価学会は何宗なのかもよく分からない。

(以下引用)

日蓮宗の歴史

平安時代中期から鎌倉時代初期にかけて、大地震や噴火などの災害が各地で多発し、貴族社会から武家社会へ移り変わる中で戦乱が繰り返され、飢饉や疫病で苦しむ人々が後を絶ちませんでした。

そのような社会的混乱や不安が広がる中で、仏様の教えにより人々を救おうとさまざまな宗派が生まれることになります。その一つが日蓮によって開かれた日蓮宗です。

平安時代中期から鎌倉時代初期にかけて、大災害が多発しその社会的混乱から人々を救うためにさまざまな宗派が生まれました。

16歳で出家し、比叡山や高野山などで修業を積んでいた日蓮は、妙法蓮華経(法華経)こそが仏教を説いた釈迦の唯一の教えであると確信します。そして、「天変地異が繰り返されるのは邪法や悪法が世間に広まっているからだ」と説いた『立正安国論』を執権北条時頼へ提出しますが、その内容を幕府に危惧され伊豆に流罪されてしまいます。しかし日蓮はそういった数々の迫害を乗り越え、1253年(建長5年)にはお釈迦様による法華経の教えをよりどころする日蓮宗を立教し、布教につとめました。

現在、日蓮宗寺院は全国に5,300ヵ寺あります。日蓮は晩年を山梨県で過ごし、日蓮と弟子によってたくさんの寺が開かれたため、山梨県は特に日蓮宗を信仰する人々が多い地域となっています。

日蓮宗の教え

宗派名に日本人の宗祖の名前が使われているのは、13ある宗派の中でも日蓮宗だけです。それほど日蓮宗は、日蓮が与えた多大な存在意義が深く反映されている宗派であるといえるでしょう。
日蓮宗ではお釈迦様が説かれた教え、妙法蓮華経(法華経)を何よりも大切にしています。日蓮は、法華経はお釈迦様の心そのものを表したもので、題目である「南無妙法蓮華経」の7文字こそ功徳のすべてであると考えました。

当時、法華経以外の経典では、女性や武士をはじめとする一部の人々は成仏できないとされていました。その状況下で、法華経の説く「差別なく万人を平等に成仏できる」という仏教思想の原点に今こそ戻るべきであるとした日蓮の教えは、当時の仏教界に新たな風を吹き込んだのです。

お唱えする言葉

「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」

日蓮宗では「南無妙法蓮華経」を繰り返し唱えることを最も重要な修行・信仰だとしています。繰り返すことで、死後に「霊山浄土(りょうぜんじょうど)で釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)にお会いし、成仏することができる」とされているのです。




悪筆コンプレックス

字が汚い人(私もそれである)というのは、子供のころに鉛筆を使わされていたためにそうなった人が多いのではないか。鉛筆、それもHBなどだと止め、はね、払いなどをきれいに書くのが難しい。かと言って、勉強の際に筆を使うわけにもいかないから、鉛筆を使う。黒板の字を大急ぎで写さないといけないから、乱暴な字や崩し字になりがちだ。そうして悪筆が身に付く。
字はゆっくりと書くものだ、ということを身につけるだけでも、かなり変わると思うし、下の記事のように書く楽しさが分かれば、もはや悪筆コンプレックスや自己嫌悪は無くなるだろう。


コンプレックスと私の距離
2021年06月19日 09時41分 JST

万年筆を買ってみたら、「字が汚い」コンプレックスから解き放たれた話【漫画】

『きっと書くのが楽しくなる』。自分の字が嫌いだった漫画家は、箱に刻まれていたその言葉をきっかけに、万年筆の“沼”へ近寄っていった。

高校生の頃、先生は言いにくそうに、こう告げた。

「クラスいち字汚いよ」

字にコンプレックスを抱いていた私が、万年筆の「沼」にはまったことで自分の字に愛着を持てるようになったーー。

ある漫画家の実体験を描いた漫画に、反響が広がっている。

作者・いくたはなさん(@suitondiary)の万年筆との出合いは、2年ほど前。大型雑貨店のボールペン売り場を回っていた時だった。

「万年筆」で連想する使い手といえば、文豪や達筆な人。商品を手にした時、知り合いが周りにいないか思わずキョロキョロしてしまったという。

なぜなら <私は 字が 汚い> からだ。

いくたはなさん提供
万年筆との出合いは2年ほど前だった

いくたさんは高校生の頃に先生から言われたひと言が、今も記憶に残っているという。

「お前の字さ、ぶっちゃけるとな」「クラスいち字汚いよ」

「やっぱり自分の字は相当汚いんだ」という現実を突きつけられた。

<人に面と向かって『字が汚い』と言われるのはけっこうショックで 文章を書くのは好きだけど 自分の字は嫌いになった>

いくたさんは「先生もかなり言いにくそうだったので、言わせてしまってごめんなさい、という気持ちでした」と当時を振り返る。

いくたはなさん提供
字が「クラス一汚い」と指摘されたことがあった

<なので筆記用具は書ければなんでもよくて、見た目がかわいければヨシとしていた>

“字が上手くない”自分が万年筆を買うことを、「とてつもなく恥ずかしく感じていた」という、いくたさん。

だが、店で手に取った万年筆の箱にあった『きっと書くのが楽しくなる』との言葉に引きつけられた。

<この言葉で 私は沼へ近寄っていった>

いくたはなさん提供
手にした万年筆の箱には、『きっと書くのが楽しくなる』と書かれていた

思いきって買った万年筆。

インクのカートリッジを本体に付けた時の、「カチッ」と鳴る瞬間。

カリ、カリ、カリ...。

実際に書いてみると、ゾクゾクと興奮した。

<字を書くっていうか生まれてる....っ!? 字が生きてる気すらする...!!>

「万年筆を初めて使うというのもあって力加減がわからず、久しぶりに文字をじっくりゆっくり書いたんです。文字のとめ・はね・はらいが思い通りに書けて、すごく新鮮に感じました」(いくたさん)

いくたはなさん提供
万年筆、ついに「買ったった」
いくたはなさん提供
書いてみたら「即堕ち」した

そこから、いくたさんはみるみるうちに万年筆のとりこになった。

<知らなかったんです 万年筆にはメーカーがいくつもあり、期間限定の万年筆や各地の文具店オリジナルのものもあるよ!>

<知ってましたか?世の中は万年筆用のインクがわけわかんないくらいあるんですよ...!> 

相手に似合いそうな万年筆をプレゼントしたり、その人をイメージして調合したインクを贈ったり。周りに「布教」することも、すごく楽しかった。

いくたはなさん提供
万年筆の「沼」に沈み、さらなる「湿地の奥」へと迷いこんでいった
いくたはなさん提供
「布教」もすごく楽しい

<選んだ万年筆の軸、字幅、使ったインクの雰囲気で 自分の字のコンプレックスが... 化けますよ>

万年筆を使うようになり、いくたさんは自身の字に対する受け止めが変わっていったという。

「字を適当に書いてしまいがちだったのが、ゆっくり筆を運ぶことができるようになり、書くことへのコンプレックスはほとんどなくなりました。文字に関しては上手ではないけれど、愛着が持てるようになってきました

いくたはなさん提供
「日記や文章を書くのが好きだけど、自分の字が嫌いって方にまずオススメしたいです」
いくたはなさん提供
コンプレックスからはじまった私の沼の話

いくたさんのツイートには3万件を超える「いいね」が付くなど、大きな反響を呼んでいる。

「字が汚いからもう全部同意しかなかった。私も同じ経験をしていて、インク沼にドボンヌしている」

「これめっちゃわかる...何故か自己肯定感上がるし、字を書きたくなるんだよなあ...」

「わかりみに溢れる」...。

自分の字を汚いと感じている人や、万年筆と出合って字を書くことへの考えが変わった人などから、共感する声が相次いでいる。

さらに、万年筆を売る側を経験した人からは、「お客さんに書いてもらって『ナニコレー私の字、こんなに上手だったっけ』って顔になる瞬間を見るのが大好きだった」といったコメントも。

「万年筆デビューをされた方が、購入した物を見せてくださることもあり、とてもうれしいです」といくたさん。

かつてのいくたさんのように、自分の書く字を好きになれない人には、こうエールを送った。

「長年付き合うものの一つとして、文字があると思っています。デジタル化が進んでも、何かの折には字を書く状況は出てきます。なので、自分の字の良いところを少しでも探せると、文字を書くことがもう少し楽しくなるのではないかなと思います



どんな犬にもいい日がある

あまり探しすぎると、どれも気に入らない感じがしてくるので、物を選ぶ場合は適当に決めるのがいい。そういう英語の諺があったような気がするが、それはともかく、このカテゴリーに載せる諺を探すのも、基準を厳しくすると何も選べないことになる。
とりあえず、こういうのはどうか。

Every dog has his day

この「day」は面白い使い方があり、ここでは「いい時(全盛期)」の意味である。
昔、「ダーティ・ハリー」の中で、ハリーが犯人に(挑発的に)「Go on. Make my day」と言う場面があり、この「Make my day」の意味が当時は分からなかったし、今でも適訳を思いつかないが、「やってみろよ。俺に大当たりさせな」という感じか。この「大当たり」はギャンブル的な意味である。
ごく日常的なフレーズでは、仕事の終わりに「Let’s call it a day」(ここで切り上げようか)と言うのも面白い。英語圏の人間はdayを幅広く使うようだ。
「お前の日は数えられたぞ」というのが幽霊が人間を脅す言葉として使われたりするが、これは「お前はもうすぐ死ぬぞ」の意味かと思う。