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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「セカイ系」とは何か

とある評論の一節で、書いてあることが妥当かどうかは別として、「セカイ系」という、昔から気になっていたが今でも理解できない言葉の説明らしきものがあるから転載した。
私の印象では「世界系」ではなく「セカイ系」と表記されているのは、揶揄であり、その「セカイ」は本物の世界ではありませんよ、という指摘を含意していると思う。つまり、「妄想系」だろう。普通なら妄想で終わる事柄が、作品中では実際の出来事となるような作品を「セカイ系」と言っていたのではないか。いや、これは私の独断でしかないのだが、下の定義にはあまり納得できないのである。
つまり、ここでの「世界の危機」とは、要するに「作品内世界の危機」でしかないのだから、やはり「セカイ」と揶揄されることになるのだと思うわけだ。つまり、「近景」が「中景」と関係を持つことなく「遠景」と接続される、というもっともらしい分析的表現ははたして妥当なのだろうか。小説や漫画やアニメの中で、はたして中景というのはそれほど重要な要素だったかと言えば、そうだとは思わない。繰り返すが、要するに「セカイ系」とは、「妄想的事態」が作品内の「世界」になることではないか。「妄想的事態の現前化」が本質なのであって、「世界の危機」がはたして「セカイ系」の必須条件かどうか疑わしいと私は思う。広義で言えば、あらゆるフィクションはすべて「セカイ系」だとも言えるのではないか。
あのころ「セカイ系」と言われた作品を私はよく知らないが、「近景(日常的世界)」が妄想性や飛躍性を持つこと(それは世界を「遠景」とすることとは別のものだろう)が「セカイ系」のような気がする。まあ、要するに「近景」「中景」「遠景」という言葉に私は無理さを感じるわけである。むしろ、現実と非現実の表裏が入れ替わるのがポイントなのではないか。


(以下引用)

セカイ系とは、アニメやライトノベルやゲームの分野で、おもに2000年代初頭以降に流行った世界観のこと。自分の心境や自分を取り巻く狭い範囲の状況(近景)が、コミュニティや他の人々(中景)との関係性が描かれることなく、世界の危機(遠景)に直結している、といった定義が一般的だ。

やや強引にこの構図を当てはめるなら、繊細な彼らはネットを通じて、自分のお気持ち(近景)が、大文字の“社会”や“マスコミ(遠景)”と、直結してしまっている。

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