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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

下肢静脈瘤の治療法(一部)

こむら返りで目が覚めたついでに、ネットで調べたものを転載しておく。
こむら返りの原因として下肢静脈瘤(私も持っている)があるらしい。
また、原因として降圧剤(利尿薬)の副作用もあるらしい。

(以下引用)

4.下肢静脈瘤の治療方法
静脈瘤のタイプ・患者さんの状態によって異なる治療法。
下肢静脈瘤の治療には、大きく分けて “保存的治療”、“硬化療法”、“手術”、“血管内治療”の4つがあります。それぞれの治療にはメリットと注意点がありますので、静脈瘤のタイプや患者さんの状態によって適切な治療を選択する必要があります。
  • 保存的治療は、生活習慣の改善や弾性ストッキングなどで症状を改善したり、進行を予防する治療です。
  • 硬化療法は静脈瘤に薬を注射して固めてしまう治療です。
  • ストリッピング手術は、静脈を切除し、引き抜く方法です。
  • 血管内治療は低侵襲治療[※1]で、高周波(ラジオ波)またはレーザーを使用する血管内焼灼治療と、接着材(グルー)を使用する血管内接着材治療があり、日帰りで治療することができます[※2]
※1「低侵襲治療」とは?
手術・検査などに伴う痛み、発熱・出血などをできるだけ少なくする治療。
内視鏡やカテーテルなど、身体に対する侵襲度が低い医療機器を用いた診断・治療のことで、患者の負担が少なく、回復も早いと言われています。

※2 医師の診断によります。
下肢静脈瘤のおもな治療法
治療法 保険適用 治療費 治療に適した静脈瘤のタイプ
保存的治療 3000〜5000円
(弾性ストッキングの場合)
軽症例・手術後の再発防止
硬化療法 約5000円 くもの巣状・網目状・側枝型
ストリッピング手術 約3万5000円 伏在型
血管内治療
(高周波・レーザー)
約3万5000円 伏在型
血管内接着材治療 約4万5000円 伏在型
※3割負担の場合の自己負担額の目安です。(日帰り治療の場合・医療機関によって異なります。)
手術や薬を用いない「保存的治療」
手術や薬以外の治療法を保存的治療と呼びます。下肢静脈瘤の症状をやわらげたり軽症例の進行を予防するために、生活習慣を改善したり、弾性(着圧)ストッキングを着用しますが、他の治療と異なり根本的な治療ではありません。
運動・マッサージなどによる生活習慣の改善
下肢静脈瘤は、静脈弁が壊れて血液が重力に逆らって心臓にうまく戻らなくなる病気です。したがって、長い時間立っていると症状が強くなり、病気が進行しやすくなります。1ヶ所に長時間じっと立っているのは避け、できるだけ歩き回ったり、1時間に1回程度は休憩をとるようにしましょう。パソコンなどの作業で、椅子に長時間座ったままもよくありませんので、足首の運動をしたり、足台で足を高くするようにしましょう。お風呂で足のマッサージをしたり、就寝時に足を高くするのも効果的です。
足のむくみを改善する運動・マッサージ(足の静脈の血管を促す)
弾性ストッキングの着用
弾性ストッキングは、足を締めつけて、ふくらはぎの筋ポンプ作用を助けることによって静脈還流をうながし、足に血液がたまるのを防ぎます。足を締めつけると逆に悪くなると心配される方もいらっしゃるようですが、弾性ストッキングは足首から段階的に圧力が弱くなっており、心臓にむかって血液が流れるように考えられて設計されています。コンビニエンスストアやドラッグストアなどで、むくみ予防用に売られている市販の着圧ストッキングと医療機関で処方される医療用の弾性ストッキングがあります。市販品も医療用も基本的に構造は同じですが、医療用は圧迫する圧力が強く着用に注意が必要なため医療機関でしか購入できません。長さによってハイソックス、ストッキング、パンティーストッキングなどの種類があります。
弾性ストッキングの種類
弾性ストッキング・コンダクターによる指導
弾性ストッキングは正しく着用すれば、下肢静脈瘤の治療にたいへん役に立ちます。しかし、履くのが難しかったり、かぶれなどのトラブルをおこすことがあり、長く履き続けることが難しいものでもあります。このような問題を解決するために日本静脈学会では「弾性ストッキング・コンダクター」という資格を設けています。弾性ストッキング・コンダクターは、弾性ストッキングのソムリエともいえる資格で、医師の指示のもとストッキングの種類・サイズの判断、着用時の指導、着用後の不満・問題点の相談を受けて適切な指導を行います。
■2020年4月から、難治性潰瘍に対する圧迫治療が保険適用になりました
対象となる症状など詳しくは医師にご相談ください。
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議論は、まず議論の前提条件の正否を確認するのが当然

まあ、こういう「どうでもいい問題」を真面目に論じるのは嫌いではないが、問題なのは「問題の前提が事実かどうか」を確かめないで論じていることだ。
これは「酸味のあるコーヒー」の場合の話だろう。私は酸味のあるコーヒー(キリマンジャロなど)は大嫌いなので、まったく買わず、酸味のほとんど無い「コロンビア、マンデリン、モカ」を好みとするが、ブレンドでもちゃんと味の「酸味、苦み」の度合いはパッケージに書いてある。
そして、もともと酸味の少ないコーヒーは、時間が経っても酸味が強くなることはまったく無い。

(以下引用)

講義後に質問に来た学生と、なぜコーヒーは煎れて時間が経つと酸っぱくなるかについて文献検索した。小一時間の調査の結果、焙煎によって生じたコーヒーの成分クロロゲン酸ラクトンがお湯の中で加水分解してカルボン酸になるからではないかということで一件落着。私としても面白い時間になった。

素人が絵を描く楽しみ

私はもともと不器用で、そのうえ脳梗塞の後遺症で利き手に鋭敏さが無い。
ということで、そういう人間が、絵を描いて楽しいのか、という疑問を持たれそうだが、それが楽しいのである。で、それにはコツがある。これは、多くの人に知ってもらいたい秘訣である。

1:「図」を書くな、「絵」を描け。言い換えれば、「鉛筆」でデッサンなどするな。最初から絵筆で描け、ということだ。これをさらに言い換えれば、

2:具象画を描くな、「抽象画」を描け。である。これを言い換えれば、「線を描くな、色を塗ることを楽しめ」であり、さらに「筆のかすれや色むらも味わいだと思え」である。さらに、

3:立体を描こうとするな、「平面」だけで表現しろ。である。立体表現というのは玄人のやる事であり、素人には困難で、失敗すると意気阻喪する。そういう「難しいことはやらない」のだ。

まあ、こんなところである。ここで書いたことは「水彩画」が主な場合だが、それは、水彩画、あるいはインク画というのが、色が画用紙の上で自然に混ざった時に「面白い効果」を出しやすいからだ。つまり、「半分は偶然に任せる」のが私の絵画心得である。ここにこういう色をこういう形で置いたら面白いかな、と思えば、そうしてみる。あまり上手く行かなくても、かまわずに、別の色をその傍に置いてみる。すると、前の絵具と浸透し合って面白い効果が出たりするのである。
色を使わなくても、画面の上に黒い絵具を様々な濃淡で置いた(筆を走らせた)だけでも面白い効果が生まれるのである。
色と色の相互浸透をより面白くするために、画用紙に霧吹き(百均で手に入るし、化粧品などの空きスプレーでもいい)で霧を吹いておくのもいいし、あるいは絵具やカラーインクを画面に置いた後で霧を吹いてもいい。後者は、色が飛散して面白い図形ができる。

こういう「絵を描く遊び」は、小学校や中学校の図画工作の授業で教えたらいいと思う。何しろ、そういう授業では「具象画」しか教えないし描かせないが、具象画ほど難しく、優劣がはっきりしているものはないからだ。自分の下手な絵を見て自分の絵の才能に絶望した子供は膨大にいるだろう。そしてそういう子供は絵を描く面白さとは生涯無縁なのである。



「勉強」と「娯楽」

私は現在、中学生の頃に考えていた「理想の生活」をしているのだが、残念なのは、老齢で身体の不調があることだ。
中学生のころの理想の生活とは、要するに、誰からも邪魔されず一日中好きなことをしているということだが、年金生活に入った老人はそれが可能になる。ただし、その「好きな事」は、カネがかからないことに限定されるのだが、中学生レベルの「好きな事」とは、色気づく前なら、さほどカネはかからない。つまり、好きな菓子を好きなだけ食うとか、好きなゲームを気の済むまでやるとか、一日中漫画を読むとかいった類のことで、それらにはほとんどカネはかからない。
つまり、「理想の実現」というのは実に簡単な話なので、問題はいつの時点の理想を実現するのか、ということだ。これが、世界中の美女を手に入れたいとかいった理想になると、どこかの国の独裁者になるかビル・ゲイツのような大金持ちになるしかないわけで、それでもすべての美女が手に入るわけではない。そもそも、毎日違う美女を相手にしても、1年で365人、10年で3650人しか相手にできない。そのうち、セックスするのも嫌になるだろう。
豪華な料理が食いたいとか高価な酒が飲みたいという欲望もあるだろうが、安い食い物、安い酒で満足できるなら、そのほうがお手軽な幸福だ。つまり、欲望というのは、思うほど達成が難しくもないし、達成してもさほど満足できるとは限らないのである。で、最初からそう推測して「やーめた」という生き方もあり、それが仏教の「小欲知足」であり、「我唯知足」である。
で、現在の私の生活だが、まあ、中学生くらいの学校のカリキュラムを「まったく束縛なしに」やることを楽しんでいるという感じである。
つまり、絵を描く、音楽を聞く、「社会科」の勉強をする、「英語」の勉強をする、体育をする、といったようなことで、学校のカリキュラムとの違いは、「勉強内容は自分で決める」「時間も好き勝手にする」という2点である。たとえば、「体育」というのは、他の科目の合間に部屋から部屋へ歩いたりする程度のことだ。その途中に階段などがあると、もっといい。「音楽」は言うまでもなく、ユーチューブで好きな曲を探してそれを流すだけである。たまにギターを弾いたり(というより音を出すだけだが)するが、ギターは部屋の片隅にあって「いつでも弾ける」という満足感だけで十分なのである。
英語の「勉強」は、英書を一度に数行読むだけだ。今はアガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」を読んでいる。もちろん、翻訳で読んだことがあるが、英語原文で読むのは違った面白さがある。たとえば、例の童謡の行の終わりが韻を踏んでいるのは、翻訳では分からない。原則として詩は原文でないと本当の味わいは無いだろう。
社会は現在立花隆の「日本共産党の研究」を読んでいるが、これが抜群に面白い。これまで共産党関係の文章を読んでまったく理解できなかった事柄が、実に分かりやすく書かれている。これはメモを取りながら読んでいる。
というわけで、私の一日は中学生レベルの「勉強」を「娯楽として」やっているわけである。私は集中力が無いので、文章を数行読むと、目を上げて窓から庭の木やその向こうの空や雲を眺めるのだが、それがいいアクセントになる。学校なら教師に怒られているところだ。
強制の無い「勉強」は娯楽なのだ、ということである。


後見よソワカ

某漫画家のツィートだが、年を取るとありがちなことだろう。
で、こうした物忘れがしばしば大きな事故になる。
そういう事故を防止するための呪文があって、これは幸田露伴が娘の文に教えた呪文で、自作の冗談めいた呪文だが「後見よソワカ」というのである。「ソワカ」は真言の呪文の最後に付ける言葉で「成就せよ」みたいな意味らしい。漢字では「蘇(薩)婆訶」と書くようだ。
つまり、何かをやって、次の行動に移る前に、周りを見回して、見落としが無いか確認しろ、ということである。昔の駅員は「指差し呼称」をしたものだが、今でもやっているだろうか。
とにかく、行動はゆっくり確実に、がプロの心得である。これは素人にも日常生活にも通じる。
なお、「買ってきたトートバッグ」は、トートバッグを買ってきたわけではなく、「買い物に使ったトートバッグ」だろう。短文にしようとあせるとこういう文になる。まあ、ツィッターは意味が通じればいい、という考えが普通なので、日本語が壊滅的になる。

(以下引用)

夕方4時ごろ買ってきたトートバッグ、玄関に置きっぱなしにしてた。牛乳パックどうしたものかなあ。