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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「勉強」と「娯楽」

私は現在、中学生の頃に考えていた「理想の生活」をしているのだが、残念なのは、老齢で身体の不調があることだ。
中学生のころの理想の生活とは、要するに、誰からも邪魔されず一日中好きなことをしているということだが、年金生活に入った老人はそれが可能になる。ただし、その「好きな事」は、カネがかからないことに限定されるのだが、中学生レベルの「好きな事」とは、色気づく前なら、さほどカネはかからない。つまり、好きな菓子を好きなだけ食うとか、好きなゲームを気の済むまでやるとか、一日中漫画を読むとかいった類のことで、それらにはほとんどカネはかからない。
つまり、「理想の実現」というのは実に簡単な話なので、問題はいつの時点の理想を実現するのか、ということだ。これが、世界中の美女を手に入れたいとかいった理想になると、どこかの国の独裁者になるかビル・ゲイツのような大金持ちになるしかないわけで、それでもすべての美女が手に入るわけではない。そもそも、毎日違う美女を相手にしても、1年で365人、10年で3650人しか相手にできない。そのうち、セックスするのも嫌になるだろう。
豪華な料理が食いたいとか高価な酒が飲みたいという欲望もあるだろうが、安い食い物、安い酒で満足できるなら、そのほうがお手軽な幸福だ。つまり、欲望というのは、思うほど達成が難しくもないし、達成してもさほど満足できるとは限らないのである。で、最初からそう推測して「やーめた」という生き方もあり、それが仏教の「小欲知足」であり、「我唯知足」である。
で、現在の私の生活だが、まあ、中学生くらいの学校のカリキュラムを「まったく束縛なしに」やることを楽しんでいるという感じである。
つまり、絵を描く、音楽を聞く、「社会科」の勉強をする、「英語」の勉強をする、体育をする、といったようなことで、学校のカリキュラムとの違いは、「勉強内容は自分で決める」「時間も好き勝手にする」という2点である。たとえば、「体育」というのは、他の科目の合間に部屋から部屋へ歩いたりする程度のことだ。その途中に階段などがあると、もっといい。「音楽」は言うまでもなく、ユーチューブで好きな曲を探してそれを流すだけである。たまにギターを弾いたり(というより音を出すだけだが)するが、ギターは部屋の片隅にあって「いつでも弾ける」という満足感だけで十分なのである。
英語の「勉強」は、英書を一度に数行読むだけだ。今はアガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」を読んでいる。もちろん、翻訳で読んだことがあるが、英語原文で読むのは違った面白さがある。たとえば、例の童謡の行の終わりが韻を踏んでいるのは、翻訳では分からない。原則として詩は原文でないと本当の味わいは無いだろう。
社会は現在立花隆の「日本共産党の研究」を読んでいるが、これが抜群に面白い。これまで共産党関係の文章を読んでまったく理解できなかった事柄が、実に分かりやすく書かれている。これはメモを取りながら読んでいる。
というわけで、私の一日は中学生レベルの「勉強」を「娯楽として」やっているわけである。私は集中力が無いので、文章を数行読むと、目を上げて窓から庭の木やその向こうの空や雲を眺めるのだが、それがいいアクセントになる。学校なら教師に怒られているところだ。
強制の無い「勉強」は娯楽なのだ、ということである。


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