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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

文章読解問題

某ツィートだが、小論のネタとして面白い。「このエピソードをできるだけ細かく分析して、どういう解釈が可能か、すべて書き出しなさい」という問題である。
ひとつの解釈は、この女性が自分の話は愚痴だとは思っておらず、相手の男性の話し相手になるというボランティア行為だと思っていたということだ。相手の女性の話を「愚痴」だとするのも、その女性を「精神的に脆そう」とするのも、この男性の主観でしかないからである。客観的に推定できるのは、この男性の存在価値はこの女性にとって非常に低いものだったということだろう。でなければ、これほど軽蔑的な態度は取らないはずである。もちろん、この男性もそれを自覚しており、この話自体が自虐的ユーモアなのである。
「同情は平等ではない」は、この小話の締めのセリフとしては効いているが、当たり前の事実を深い真実のように言うことで、書かれたエピソードの些細さとのアンバランスのユーモアを狙ったものだろう。

(以下引用)

昔とある女性(付き合ってはない)の相談に時々のった。愚痴を聞き精神的に脆そうな彼女を心配もした。ある時私自身が落ちこむ事があり吐露しようとしたら「どうしてあなたの愚痴を聞かなきゃいけないの」と言われた。あれだけ話を聞いたから俺も話して当然と思ってしまったのだ。同情は平等ではない




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物事をきちんと「分けて捉える」ことが論理の基本

私はナンセンスユーモアは好きだが、それはその構造が論理の裏返しであるからだ。最初から論理性の無い言論は私には耐えがたい。前回の内田樹に関する記事は、そういう非論理性への怒りだと思う。まあ、怒りそのものが感情であり、論理ではないのだが。
それはともかく、一時的にメモしておいた問題をここで考えてみたい。
先に、その「問題」を転載(自己引用)しておく。

(以下自己引用)

面白い指摘だが、論理(大筋は賛成)が大雑把すぎる感じだ。後で考察してみたいのでメモとして保存し、追記する予定。


(以下引用)


芦辺 拓
@ashibetaku
60年余生きた経験からすると今の失政がどんな惨状を生もうと「やっぱり自民党でないとダメなんです!」と声があがって何も変わらない。さすが敗戦後はそんなことはなかったと思いきや、公選になった知事・市長に選ばれたのは旧内務省の官僚ばかり。つまり官選と同じ結果。日本人はとにかく変えられない



(自己引用終わり)

芦部拓のこの発言のどこに問題があるかというと、論理の基本である「問題の要素を分けて、そのひとつびとつを正確に検討する」という作業ができていないということだ。まあ、直感的な判断だ、ということだろうから、ツィッターなどではそれが普通ではあるだろう。
1:敗戦後と現在を比較しているが、当時と現在は状況がまったく異なる。芦部氏は「敗戦で人民は日本の政治の誤りに気付いただろう」という前提で考えているが、敗戦後の国民は、完全な混乱状態にあったのであり、日本の政治が間違っていたという自覚を持った人間はほとんどいなかったはずだ。知事や市長を選ぶ際に、判断の根拠となるのは、候補者の「実績」「学歴」だけであるが、敗戦当時に地方自治体首長としての実績を持った人間は候補者の中にほとんどいなかったはずだ。政治経験者の多くは「公職追放」されていた以上、政治家に準ずる実績を持つのは官僚、特に旧内務省官僚たちだけだっただろう。内務省は「官僚の中の官僚」であり、庶民から見れば雲の上の人だ。素性の分からぬ候補者に入れるよりは、「優秀な」(と期待される)官僚に投票するのは当然なのである。
2:庶民が自民党に票を入れ続けることと、敗戦時に「官僚出身者」に入れることはまったく別の話であり、官僚=保守層というのは現在を視座とする固定観念にすぎない。戦争時の官僚は国家統制の要であり、当時の日本はいわば「戦時国家社会主義」なのであり、むしろ革新的な思想の者も多く、マスコミ人などは「官僚=アカ」と見做す者もいたのである。
3:「日本人は」という大きなくくりが論理的には根本的欠陥であることは言うまでもない。提灯も釣鐘も「吊るされているから同じ種類だ」とか、月とスッポンも「丸いから同じ種類だ」と言うようなものだ。




ルサンチマンは「思想」か

内田樹のサイトからの転載だが、このツィートに賛同して内田は引用したのだろう。
私は内田樹というのは論文を書くのは上手いと思うが、思想家としてはあまり評価していない。世間ウケのいい発言ばかりしている印象である。
この、引用されたツィートは、愚劣そのものだと思う。ルサンチマンの「強度」という言い方も愚劣だが、世間の人々が「自分のルサンチマンの強度を競うのが思想だと思っている」というのは、いったい何を根拠にしての発言なのか。そんなものを「思想」だと思っている人間はほとんどいないだろう。単に、「自分のルサンチマンをSNSなどの発言で垂れ流す人間は多い」だけの話である。問題は、その発言の土台がルサンチマンだと当人が気づいていないことが多いことだ。こういうのは「思想」でも何でもない。ツィート後半は、「自分は真剣にみんなの幸せを考えているが、他の連中は自分の恨み言を垂れ流すだけだ」という、自分アゲ、他人サゲの卑劣な言説である。そのご当人が、他人の幸せを考えるのは結構だが、考えるだけで何かが実現できるわけではない。自慢するのも愚劣である。
とにかく腹の立つ文章である。こういう文章をわざわざ取り上げる内田樹の頭脳や感覚の程度も信頼できるものではない。

(以下引用)

偉い人も偉くない人も自分のルサンチマンの強度を競うのが思想だと思ってるけどオレにはそれは集団自殺にしか見えないけどなあ。オレは皆が呑気に楽しく生きるにはどうすればいいか、しか真剣に考えてないけど、彼ら彼女らは「お前より自分は辛い」ことをアピールするのが思想だと勘違いしている

日本人と政治

面白い指摘だが、論理(大筋は賛成)が大雑把すぎる感じだ。後で考察してみたいのでメモとして保存し、追記する予定。


(以下引用)


芦辺 拓
@ashibetaku
60年余生きた経験からすると今の失政がどんな惨状を生もうと「やっぱり自民党でないとダメなんです!」と声があがって何も変わらない。さすが敗戦後はそんなことはなかったと思いきや、公選になった知事・市長に選ばれたのは旧内務省の官僚ばかり。つまり官選と同じ結果。日本人はとにかく変えられない

「物の価値を下げる行為」は「器物損壊罪」

メモ、あるいは「常識でない常識」に当たる引用。

(以下引用)


(承前) 「事実上又は感情上においてその物を再び本来の目的に供する事ができない状態」に陥らせた場合も「損壊」に該当します。判例では「鍋及び徳利に放尿する事」が「損壊」に当たるとされています。 「他人に噛まれたメダル」が「当人にとって価値を大幅に落とした」となれば「損壊」ですねぐるぐる目の顔
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法學院狂魔
@Adepteater029
「河村たかしがメダルを噛んだ」事が物議を醸していますが、メダルを噛む事は刑法第261条「器物損壊罪」になり得ますよぐるぐる目の顔 同条の「損壊」とは「物質的に物の全部又は一部を害し、又は物の本来の効用を失わせる行為」です。歯形が付けば当然前者に該当します。 しかしメダルが無傷であっても(続く)