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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

必要な法知識が一般常識化されない理由(携帯と運転)

こういうのはもっと大々的に教えるべきだと思うが、そうすると「グレーゾーンを利用する人」が増えて現場の警官が困るのだろう。

(以下引用)

違反者講習を受けて良かったのは信号待ちでのスマホ操作や通話は違反にならないという事がはっきりしたこと。 スマホを操作したまま、通話したまま動き出すとその瞬間違反になるんだって。 なるほど、皆さん気をつけましょう^ ^
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着物マニアも言葉の「伝統」を知らない?

着物は、右前が男女とも正しい着方だと言うが、素人が見ると右前は襟(前後が目立つ部分)の左側が前に出ているので、「右前にしなくっちゃあ」と思って逆に左前で着てしまう人は多いと思う。つまり、これは言葉がダメダメなのであって、着る人の罪ではない。
古語には(というか、現代語でもそうだが)「前」には「先」の意味があって、実はこの場合がそれだ。着付けの際に、右手で持つ側を「先に」身体に合わせるから「右先」の意味で「右前」と言っているのだろう。それを、空間的な「前」の意味で解釈するのが普通の人なのである。
こういう「右前・左前」問題がなぜ起こるか、着物業界の人は真面目に考え、「右先・左先」と言葉を換えるなりの改革が必要だろう。普通「前後」は空間、「先後」は時間で使われるからだ。
まあ、「前後」も時間でも使うが、着物の着付けは空間的把握としか誰も思わないから、そこに「時間的前後(先後)」が侵入して、「右前」「左前」となると、時間的意味は頭から消えて空間問題だとしか思わないのである。だから、言葉は変えなくても「この『前』は『先』の意味ね」と教えるだけでもかなりこの問題は改善される。

(以下引用)

■きものの「右前」とは?

きものの「右前」とはきものを着るときは、地衿や衿先をもって身体に合わせていきます。その際、着付けるときに下になる右手に持っている身頃が「下前」になり、着付けるとき上になる左手に持っている身頃が「上前」になります。

まとめてみますと…

地衿と衿先に続く、右手に持っている下前を先に合わせる着方が「右前」です。写真や画像で見ると、きものを着用している人の身体側にある身頃が「下前」ということになります。

コーヒーの飲み方

昔、獅子文六に「珈琲道」という短編があって、読んではいないがこのタイトルは非常に気に入っている。
私がこのブログで書いているのも、「日常生活すべて道」というテーマが伏在している。ただし、「道」とは言ってもたいそうなものではなく、少しでも生活の幸福度を高める「方法」のことである。
で、今回の記事のタイトルにある「コーヒーの飲み方」だが、コーヒーの「淹れ方」などとはまったく無関係な、本当に、ただ「飲み方」の話である。しかも、世間のコーヒー好きの人のほとんどは「間違った飲み方」(www)をしているのではないか、と思うから記事を書いているわけだ。
まあ、半分は冗談だが、我々は歩き方も呼吸の仕方もすべて間違っているのではないか、そしてそれは生活の質を非常に劣化させているのではないか、と私はいつも思っているので、「コーヒーの飲み方」もそのひとつになるわけだ。
で、それは「ブラックで飲め」とか「砂糖を入れるな」とかいう類のものではない。
単に、「一回に口に含む量を我々は間違えていないか」ということだ。クリームや砂糖を入れるか入れないかは個人的な好悪だから他人がとやかく言うことではない。
しかし、「一回に口に含む量」は、多くの人が気づかないで間違いを犯している可能性が高いわけだ。
では、どういう量が適切かと言うと、それは「喉にほとんど落ちていかない量」だというのが私の主張である。あるいは、これはワインなどの場合も同じかもしれない。
我々は口の中で食物や飲み物の味を味わっているのであり、食道や胃で味わっているのではない。つまり、口中で味わう以上の量は、味わわれることもなくただ食道や胃に落ちていくだけなのである。
まあ、暑いさ中には冷たい飲み物の「喉越し」の快感はあるだろう。しかし、熱いコーヒーを飲むのに、「喉越しの快感」はあるか? 無いなら、なぜ我々は口中で味わう以上の量を一回に口に含むのか。
もちろん、そういうふうにちびちび飲むとかえって不味く感じるという人はこれまでどおりにガバガバ飲めばいい。また、ちびちび飲むとコーヒーが冷めて不味く感じると主張する人も勝手に飲めばいい。しかし、基本的に、「味わって飲む類の飲み物は、喉にほとんど落ちていかない量が一口の量として適切である」と私は主張する。

ついでに言えば、私は1日に5杯くらいコーヒーを飲むが、その大半は、「コーヒーが飲みたいな」という気持ちを満足させるたったの「ひと啜り」だけで十分なのである。だが、飲み始めたら惰性的に一杯全部を飲んでいまうのは、煙草をひと吸いだけで終わる煙草呑みがいないのと同様で、最初の一口、一吸い以降はただの惰性なのである。




好意を見せたために相手にストレスを与える話

私は人の顔を覚えるのが大の苦手なのだが、世の中にはそれが得意な人もいる。
山本さほのweb漫画の新しい回で、お気に入りの食べ物屋で顔を覚えられて、「もうこの店には行けない」という気持ちになる、という内容の話があって、それを批判する「お店関係の人」のツィートをどこかで見たが、私は山本さほの気持ちがよく分かる。
特に、「特別サービス」を受けると、二度とその店には行かないだろう。実際、そういう経験がある。と言うのは、そういうサービスを受けた店にまた行けば、それは「サービス目当てで来たな」と思われかねないし、また、そういう気苦労や心的葛藤(またサービスすべきかどうか)を店の人に起こさせるだろうと思うからだ。まあ、好意を見せたために馴染み客をひとり失うという不条理だが、それが人間心理というものだ。
もちろん、個人的サービスを受けて大喜びして、その後もそのサービスを当てにしてその店に行くというのが普通なのかもしれないが、そういう「サービス」(特別扱い)を好まない人間も一定割合でいるということである。


創価学会内の特殊用語や観念

こういうスレッドは役に立つ。
私は創価学会が釈迦よりも日蓮を上位に置いているとは知らなかった。仏教への反逆ではないか。
まあ、キリスト教に対するイスラム教に相当するか。
なお、雑な内容だという批判もあるが、雑というのは「大筋は正しい」ということだろう。
その批判も後で載せる予定。

(以下引用)


2021-06-21

創価学会系の人しか使わない言葉10選

私は創価学会員ではありません。

趣味創価学会研究しているものです。

注・なお、創価学会系とは日蓮正宗顕正会もさします。

1,大聖人(だいしょうにん)

鎌倉時代僧侶日蓮」のこと。

創価学会は彼を実質的に「神」として崇めている。

所謂「お釈迦様」よりも上位の存在とみなされる。

(厳密にいうと「本仏」という。)

なお、一般的日蓮宗系の宗教では「大菩薩」ということが多い。

菩薩は仏に次ぐナンバー2という意味であるため、創価学会系の人とは

相容れないのである

2,謗法(ほうぼう)

「罰当たり」の最上級バージョンといえる。

最近日本でも放送している韓流ドラマタイトルにもなったので

知名度は上がったかもしれない。

創価学会系の人にとっては最大の侮辱ワードとなる。

3,境涯(きょうがい)

境遇」のこと。なぜか「高い」「低い」と表現する。

4,財務(ざいむ)

お布施」のこと。創価学会では毎年末に集められる。

強制ではないのだが、もし行う場合は最低1万円出さなければならない。

一般家庭でも100万円出すところもある。

5,折伏(しゃくぶく)

勧誘」のことだが、無理やり入信させるというイメージである

6,破折(はしゃく)

論破」のこと。「破(は)す」ともいう。(後者の方が文語的)

7,御書(ごしょ)

日蓮信徒に当てたとされる手紙のこと

創価学会系では「聖書」的な扱いである。

8,仏法(ぶっぽう)

仏教」のこと。

9,広宣流布(こうせんるふ)

創価学会の教えが世界に広まった状態を指す。

公明党もかつてはそれに必要な「国立戒壇」(創価学会(厳密には日蓮正宗)員になるための儀式会場)

を作ることを目指していたが共産党などから追及されたり学会側の不祥事により破棄せざるを得なかった。

現在では池田大作創価学会名誉会長創価学会インターナショナル(SGI)会長

世界各国で対話を行ったり、支部を作ったことで事実上達成したというのが公式見解である

10,功徳(くどく)

「ご利益」のこと。いわゆる「エア本動画からネットミーム化した感もある。

(上記内容への批判を転載する)

雑だなぁ。いくつか修正しとくよ。

謗法、

法をそしると書く。他宗や外道への信仰法華経に書いてある内容をそしる事に繋がるから駄目だよねって考え方。

創価学会僧侶擁立していないが為に、仏教としての定義に反するので内道の仏教じゃなくて外道だよね

じゃあ謗法だよね?っていう教学の上での致命傷が有る。割と逃げ場の無い正論なので指摘するとキレる。

境涯

境遇の事とするのは狭いかなぁ。因果応報輪廻転生ってどちらも仏教基本的な考え方で受け入れやすいよね

でもこの二つって別々に存在してるわけじゃないからくっつくんだよね。都合の悪い人も多いだろうけれど。

まれも育ちも全部自分のせいだからね?つらくても受け入れようね?って仏教は言ってきます

そういうの踏まえた上で、あの人はそういう境涯からね…。って使い方をします。

功徳

仏教因果応報を説きますのでご利益とするのは誤りです。まぁ皆同じ意味認識してそうですが

仏教における功徳って概念は、筋トレすれば筋肉が付く位の意味です。それは奇跡を願った神頼みとは違います

まぁ創価学会は現世利益を謳ってたみたいな話を耳にしたことあるので、学会の話としては間違いじゃないかしれません。