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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「極限」の思考法とハンス・カルベルの輪

寝覚めの朦朧状態の中で、「ハンス・カルベルの輪」の話をなぜか思い出したので、書いておく。これはラブレーの作中に出てくる話で、猥褻の最たるものと言われているらしい。ただ、ここで取り上げるのは、猥褻だからではなく、この話には数学的な「極限」の考え方が使われていると思うからだ。
たとえば、トイレットペーパーの底面のドーナツ型の図形とその半径と紙の厚さの数値を示し、その紙を全部延ばした場合の紙の長さを出せ、という問題(麻布中学の入試問題である。)があった時、その出し方は、紙の厚さを長方形の短辺とし、紙の長さを長辺とする極端な形の長方形であると見做し、その面積がドーナツ型の底面積と等しいことを利用して出すのである。
この考え方を数学的な「極限」の思考法だと私は思っている。
そう考えると、人間は極限化した立体としては一本の管にすぎないことになる。さらに、その管の長さを上下に極端に縮めれば、リング状の立体になる。


さて、オランダかどこかにハンス・カルベルという商人がいた。なかなか繁盛していたが、彼には悩みがあり、それは美人の女房が浮気性なことだった。
或る夜、ハンスが寝ていると夢を見た。夢の中に悪魔が出てきて、お前の願いを何でもいいからひとつ叶えよう、と言う。ハンスが「どうか、女房が絶対に浮気をしないようにしてください」と願いを言うと、悪魔はひとつの指輪を取り出し、「お前がこの指輪をしているかぎり、お前の女房は絶対に浮気をできない」と言うのである。
ハンスは喜んでその指輪を指にはめ、そこで目が覚めたのだが、……

後は言わなくても分かるだろう。フレドリック・ブラウンのアレンジだと、そこで女房が「うふん、そこはお門違いよ」と言うのだが、確かに人体を指輪としたら、口から肛門までが空洞であり、元の話だと厳密な指輪にはならないようだ。
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