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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「無知が幸福なら知ることは愚かである」

この年まで生きてきて思うのは、「無知な人間ほど善良で、幸福でもある」傾向があるのではないか、ということである。つまり、本など読んでいろいろ知っている人間は、世の中の悪の存在を知っているから、人の言葉や行動や物事の裏を考える傾向があるわけで、そうすると、人間関係はあまり楽しくないものになる。まあ、人に騙されにくくはなるだろうが、それだけだ。物を考えるより、他人とおしゃべりしている方が好きだという人間を当然他人も好きになるだろう。すると他人はその人間に好意的にふるまうから、すべて好循環になる。無知は無邪気さに、無邪気さは善良さに通じるのである。我々が子供や小動物が好きなのは、彼らが「自分より下の」知識や知能を持っており、悪意が無いからだ。知識が増えることの悪影響は物事に懐疑的になることで、付き合いにくい人間になりがちなことではないか。まあ、これは単なる仮説だ。知識のジャンルにもよる。
前置きが長くなったが、これは次の諺を持ちだすための前振りである。

Where ignorance is bliss、'ts folly to be wise

「無知が幸福なら、賢いことは愚かである」(記事タイトルでは「wise」を「知ること」とした)
直訳的に訳すなら「無知が至福であるような場所では、賢いことは愚かである」か。

これはトーマス・グレイという詩人の詩の一節らしい。
その詩の末尾を適当に訳すと

「だが、ああ、この若者たちが自分の運命を知る必要などあろうか
悲しみがあまりに遅く来るということもなく、
幸福はあまりに速く飛び去るのに!
物思うことは彼らの天国を破壊するのが常だ
これ以上何も考えるな
無知が至福であるところでは、賢いことは愚かである」

似た諺にこういうのがある。

What the eye doesn't see,the heart doesn't grieve over

「目が見ていないものを心が悲しむことは無い」といったところか。


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「破滅するより妥協するがマシ」

私はこのカテゴリーを、或る英書をネタに書いているのだが、索引部分で目を引いた諺を選ぶことにしている。まあ、Aの項目から流し読みしていくわけだ。
で、今回は

Better bend than break

というもので、直訳すれば「壊れるより曲がるほうが良い」
だが、もちろん、Bで頭韻が踏まれているわけである。
意訳するなら

「破滅するより妥協するがマシ」

というところだろうか。
この本の筆者は、この諺を「臆病な(卑怯な)アドバイスである。いつの日かその相手と再び戦う前提でない限り」(意訳)と批判している。

似た諺で、「二つの踵はしばしば二つの手に勝る」というのもある。(ふたつの)踵は当然「逃げること」を意味し、(ふたつの)手は「闘うこと」を意味するわけである。まあ「勝る」は私の好みで意訳したもので、元の英文はこうである。

One pair of heels is often worth two pairs of  hands

つまり、「一組の踵はしばしば二組の手と等価である」で、「二組の手」というのがピンと来ない。つまり、二人で戦うのと、自分だけ逃げるのは等価だということか? まあ、「二組の手」は誇張表現で、「仮に手が四本あっても」という意味だろう。「逃げるが勝ち」というか「三十六計逃げるにしかず」に相当するのではないか。

最初の戦闘が戦いの半分

The first blow is halh the battle

訳は私が適当に考えたものだが、これは戦争だけでなくあらゆる事業や作業に通じるのではないか。最初というのは、すべてが五里霧中の状態で、いくつもの困難に遭遇する。だが、慣れてきて様子や物事の意味が分かってくるとどんどんやりやすくなるものである。
しかしまた、戦争やスポーツでは、最初の戦闘が戦いの大半を決定するわけだ。つまり、最初の戦闘で優位に立たれると、劣勢に立った陣営が挽回するのは容易ではない。特に戦争の場合、最初五分五分だった両者が、最初の激突で6対3の戦力になると、後者は自分に倍する戦力を相手に戦うわけで、挽回はほぼ不可能である。まさに、最初の戦闘は戦いの半分なのだ。
まあ、要は「最初が肝心」ということである。会社勤務などでも、上層部は最初の印象しか覚えないから、一度底辺に落ちた人間が組織内で浮上することは非常に困難になる。それより、途中入社の人間のほうが「最初の戦闘」の印象次第で上の人間に強い印象を与えることができる。
blowは「強打、打撃、殴り合い」などの意味。訳は「最初の打撃が戦争の半分」でもいい。