自己愛とプライドと美意識
これは、生活の技術と言うより「生きる技術」と言うべきかと思うが、人間は「自分自身を制御する」ことが一番困難であり、それができればほぼ「満足の行く人生」が送れると思う。
これは当たり前の話であり、たとえば「勉強しなくてはならないのに勉強したくない」というのはほとんどの学生の悩みだろうし、それが克服できれば優秀な成績が得られるのも自明である。もっとも、真面目に勉強しても成果が上がらないという「勉強の技術」の有無はまた別の話だ。少なくとも、遊び心を克服して勉強机に向かうという最低限のことができるというのは、「自分を制御できている」ということなのである。
まあ、勉強などについては「習慣化する」ということでだいたい克服できると思うが、ここで論じるのは「感情の克服」である。怠け心も感情と言えばそうだが、少し違うことを問題とする。
それは、「プライド」のことである。
簡単な問いかけをしよう。人間はプライドを持つのと持たないのと、どちらが「幸福な人生」を得やすいだろうか。これは、「持たないほうが幸福を得やすい」と私は思う。
もちろん、少しでも美意識のある人間なら、プライドを持たない人間を第三者として見ると不快に思うだろう。だが、直接にその人間と関わる場合、プライドのある人間というのは、実につきあいにくい相手なのである。これは、ジェイン・オースティンの「高慢と偏見」で見事に描かれている。主人公ベスが、最初嫌っていたミスタ・ダーシーの真価を知るまでには長い時間が必要だったのだ。というのが、ミスタ・ダーシーは強烈なプライドの持ち主で、自分の美意識に背く行為(人に自分を良く見せたり媚びたりする行為)は絶対にできない人間だったからである。とすれば、彼の善行は常に「隠れた善行」であり、彼の欠点は常に人の目に隠されないことになる。逆に、常に自分を良く見せようとする人間は、よほど鋭い知性の目で見ないかぎり、「素晴らしい人間だ」と思われるのである。彼の真実の姿は、彼の悪行が「事実として」暴露された場合だけになる。
「いや、プライドを持たない人間はいない」という考え方も一理あるが、問題は、その現れ方である。少なくとも、他人の前で自分のプライドを守ろうとする行為は、その相手を不快にさせるだろう。逆に、常に相手の「意を迎える」ような行動を取る人間は、ふつう嫌われることはない。軽く見られるだろうが、だからこそ親しく付き合うこともできるのである。
高位高官の前で頭も下げない人間は「プライドを守る」ことはできても、社会的には絶対的に不利になるのであり、その姿勢を貫くなら隠者にでもなるしかない。つまり、「他人へのへつらい(愛想、媚び)」は、地位や財産の無い人間にとっては不可欠の「生きる技術」になるわけである。
まあ、隠者にまでならなくても、職人とか研究者という生き方もあり、それは隠者に近いのだが、とにかく「人間を相手にする」仕事では、自分のプライドを守るのは至難のわざだろう。もっとも、「喧嘩が強い」というプライドだけで生きていく人間もいるわけで、何を自己評価の基準にするかは人それぞれである。
これは当たり前の話であり、たとえば「勉強しなくてはならないのに勉強したくない」というのはほとんどの学生の悩みだろうし、それが克服できれば優秀な成績が得られるのも自明である。もっとも、真面目に勉強しても成果が上がらないという「勉強の技術」の有無はまた別の話だ。少なくとも、遊び心を克服して勉強机に向かうという最低限のことができるというのは、「自分を制御できている」ということなのである。
まあ、勉強などについては「習慣化する」ということでだいたい克服できると思うが、ここで論じるのは「感情の克服」である。怠け心も感情と言えばそうだが、少し違うことを問題とする。
それは、「プライド」のことである。
簡単な問いかけをしよう。人間はプライドを持つのと持たないのと、どちらが「幸福な人生」を得やすいだろうか。これは、「持たないほうが幸福を得やすい」と私は思う。
もちろん、少しでも美意識のある人間なら、プライドを持たない人間を第三者として見ると不快に思うだろう。だが、直接にその人間と関わる場合、プライドのある人間というのは、実につきあいにくい相手なのである。これは、ジェイン・オースティンの「高慢と偏見」で見事に描かれている。主人公ベスが、最初嫌っていたミスタ・ダーシーの真価を知るまでには長い時間が必要だったのだ。というのが、ミスタ・ダーシーは強烈なプライドの持ち主で、自分の美意識に背く行為(人に自分を良く見せたり媚びたりする行為)は絶対にできない人間だったからである。とすれば、彼の善行は常に「隠れた善行」であり、彼の欠点は常に人の目に隠されないことになる。逆に、常に自分を良く見せようとする人間は、よほど鋭い知性の目で見ないかぎり、「素晴らしい人間だ」と思われるのである。彼の真実の姿は、彼の悪行が「事実として」暴露された場合だけになる。
「いや、プライドを持たない人間はいない」という考え方も一理あるが、問題は、その現れ方である。少なくとも、他人の前で自分のプライドを守ろうとする行為は、その相手を不快にさせるだろう。逆に、常に相手の「意を迎える」ような行動を取る人間は、ふつう嫌われることはない。軽く見られるだろうが、だからこそ親しく付き合うこともできるのである。
高位高官の前で頭も下げない人間は「プライドを守る」ことはできても、社会的には絶対的に不利になるのであり、その姿勢を貫くなら隠者にでもなるしかない。つまり、「他人へのへつらい(愛想、媚び)」は、地位や財産の無い人間にとっては不可欠の「生きる技術」になるわけである。
まあ、隠者にまでならなくても、職人とか研究者という生き方もあり、それは隠者に近いのだが、とにかく「人間を相手にする」仕事では、自分のプライドを守るのは至難のわざだろう。もっとも、「喧嘩が強い」というプライドだけで生きていく人間もいるわけで、何を自己評価の基準にするかは人それぞれである。
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