日常行動の合理化
何もしなくていい自由な時間にぼんやりと浮遊思考に耽ったり外の景色を眺めたりしているのは私の娯楽のひとつだが、日常の行動はなるべく合理的に、無駄なくしようと心がけている。
たとえば、料理をしたり食器を洗ったりする時の行動である。料理をするのに10分かかるとし、その間にやるべき細かい動作(行為)が100あるとして、その1動作に1秒かかるとする。その1秒の中に無駄な部分が0.2秒あるとして、その時間をカットできるなら、100秒が20秒だけ短縮されることになる。つまり、料理時間は9分40秒になる。そして、日常の中の「やらなくてはならない作業」のすべてにこういう「無駄な時間」は存在するわけである。もちろん、10分の中の20秒ごときが短縮されてどうなる、という考えも当然あるが、実は人生というのはこういう瞬間の蓄積なのである。1秒あればプロボクサーなら2発のパンチが出せるだろう。その1発で相手をKOし、勝負が決まるわけだ。1秒というのは「長い時間」「貴重な時間」なのである。
もちろん、その「無駄な時間」を楽しんでいるなら、それは無駄な時間ではない。しかし、ほとんど無意識に費やしている無駄な時間の蓄積が、人生の10分の1を占めているとしたら、それは70年の人生のうち7年間を無駄にしていることになるわけである。
この「行動の合理化」は、たとえば日用雑貨を常にあるべき場所に置くとか、行動の動線を合理的にするとか、無駄な買い物時間を減らすために、消耗品は常にストックを置くようにする、などである。安い消耗品は案外すぐに無くなるものだから、それが切れていると思いがけない無駄な買い物時間を必要とすることになる。この場合は一見無駄に見える「ストックを置く」ことが大きな無駄、つまり「買い物時間の回数の増加」を防ぐことになる。(ストックを置くという、「空間の利用による時間の節約」だ。コンマリ流儀や断捨離の逆である。必要なものが必要な時にそこにある、というのは単なる無駄な空間の拡張より有益である。広い空間が欲しければ外に出て散歩すれいい。)で、その「行動の合理化」自体が「思考の遊び」として楽しくなれば、一石二鳥になるわけだ。もちろん、これは遊びや娯楽としての一見無駄な時間や無駄な行動を排除するものではまったく無い。
たとえば、料理をしたり食器を洗ったりする時の行動である。料理をするのに10分かかるとし、その間にやるべき細かい動作(行為)が100あるとして、その1動作に1秒かかるとする。その1秒の中に無駄な部分が0.2秒あるとして、その時間をカットできるなら、100秒が20秒だけ短縮されることになる。つまり、料理時間は9分40秒になる。そして、日常の中の「やらなくてはならない作業」のすべてにこういう「無駄な時間」は存在するわけである。もちろん、10分の中の20秒ごときが短縮されてどうなる、という考えも当然あるが、実は人生というのはこういう瞬間の蓄積なのである。1秒あればプロボクサーなら2発のパンチが出せるだろう。その1発で相手をKOし、勝負が決まるわけだ。1秒というのは「長い時間」「貴重な時間」なのである。
もちろん、その「無駄な時間」を楽しんでいるなら、それは無駄な時間ではない。しかし、ほとんど無意識に費やしている無駄な時間の蓄積が、人生の10分の1を占めているとしたら、それは70年の人生のうち7年間を無駄にしていることになるわけである。
この「行動の合理化」は、たとえば日用雑貨を常にあるべき場所に置くとか、行動の動線を合理的にするとか、無駄な買い物時間を減らすために、消耗品は常にストックを置くようにする、などである。安い消耗品は案外すぐに無くなるものだから、それが切れていると思いがけない無駄な買い物時間を必要とすることになる。この場合は一見無駄に見える「ストックを置く」ことが大きな無駄、つまり「買い物時間の回数の増加」を防ぐことになる。(ストックを置くという、「空間の利用による時間の節約」だ。コンマリ流儀や断捨離の逆である。必要なものが必要な時にそこにある、というのは単なる無駄な空間の拡張より有益である。広い空間が欲しければ外に出て散歩すれいい。)で、その「行動の合理化」自体が「思考の遊び」として楽しくなれば、一石二鳥になるわけだ。もちろん、これは遊びや娯楽としての一見無駄な時間や無駄な行動を排除するものではまったく無い。
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