会話の中の嘘と真実
私は昔から、なぜ大人というのは嘘ばかりつくのだろう、と思っていたのだが、それが「世間づきあい」には絶対的に必要なのだろうな、と薄々知ってもいた。まあ、それが気持ち悪かっただけである。生まれたばかりの赤ん坊など醜い猿にしか見えないのに「可愛い」「可愛い」だし、妊婦など腹が膨れて醜いのに、「妊娠した女性は美しい」などと言わんばかりに堂々と往来を歩いているのには目のやり場に困ったものである。あんな、「私はセックスしました」ということの広告をしながら平気でいる神経が、性的情報が抑圧されていた時代の子供には、かなりキツイ存在だったわけだ。しかし、妊婦を醜いなどというような言葉を出すのはまさに「真実を話すものに、友達はいない」となることは分かってはいた。そうして心の中に押し殺す「真実」が積み重なると、人付き合いそのものが苦痛になるわけだ。
会話には、「いい加減に聞き流すべき部分」と「真剣に聞くべき部分」があるという使い分けができるようになるのが、成長の証のひとつかもしれない。まあ、面倒くさい話ではある。
会話には、「いい加減に聞き流すべき部分」と「真剣に聞くべき部分」があるという使い分けができるようになるのが、成長の証のひとつかもしれない。まあ、面倒くさい話ではある。
山本貴嗣さんがリツイート
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