歌手の「アドリブ」という行為の愚劣さ
先ほどまで、友人から貰ったDVDの「ポール・アンカ」ワンマンショーを見ていたのだが、最後まで見る気を無くしてこれを書いている。
どこをどうすれば、これほど「魅力の無い」歌になるのか、ということを考えるためだ。
歌はおそらく上手いのだろう。だが、ジャズシンガーによくある歌い方、つまり、元の曲を自分で変えて、アドリブ的に歌う歌い方が、最悪なのである。
つまり、アドリブ的に歌うには、一種の感覚、こう変えて歌っても、元の曲の魅力は失われないということを直感的につかむ才能が必要なのだが、その「変え方」が最悪なため、原曲の魅力がゼロになるわけだ。
それが自覚できれば、原曲のまま歌えばいいだけだが、それは、おそらくアメリカの歌手としてはプライドが許さないのだろう。「アドリブ原理主義」とでも言いたいような変な習慣である。
世の中には歌の才能はあるが作曲の才能、つまりアドリブの才能は無い歌手がいて当然なはずだが、その「当然」を「格下視」する風潮があるのではないか。
上に書いたことが分かったのは、彼が「アズ・タイムズ・ゴーズ・バイ」を歌ったからである。
映画「カサブランカ」であの歌を歌った歌手は、けっして一流の歌手ではなかったと思うが、それでも、彼の歌であの歌は世界に知られ、ジャズの定番になった。とすれば、その歌い方をある程度踏襲するのが「先輩への礼儀」ではないのか。そして、それを変えるなら、それ以上のものになるという確信があってその行為は許されるだろう。
ところが、まったく作曲の才能、つまりアドリブの才能の無いポール・アンカがアドリブで歌ったために、「アドリブという行為の致命的欠点」が私の前に明瞭になったわけである。
アドリブとは、原曲という名画、美しい織物を土足で踏みにじる行為である。
どこをどうすれば、これほど「魅力の無い」歌になるのか、ということを考えるためだ。
歌はおそらく上手いのだろう。だが、ジャズシンガーによくある歌い方、つまり、元の曲を自分で変えて、アドリブ的に歌う歌い方が、最悪なのである。
つまり、アドリブ的に歌うには、一種の感覚、こう変えて歌っても、元の曲の魅力は失われないということを直感的につかむ才能が必要なのだが、その「変え方」が最悪なため、原曲の魅力がゼロになるわけだ。
それが自覚できれば、原曲のまま歌えばいいだけだが、それは、おそらくアメリカの歌手としてはプライドが許さないのだろう。「アドリブ原理主義」とでも言いたいような変な習慣である。
世の中には歌の才能はあるが作曲の才能、つまりアドリブの才能は無い歌手がいて当然なはずだが、その「当然」を「格下視」する風潮があるのではないか。
上に書いたことが分かったのは、彼が「アズ・タイムズ・ゴーズ・バイ」を歌ったからである。
映画「カサブランカ」であの歌を歌った歌手は、けっして一流の歌手ではなかったと思うが、それでも、彼の歌であの歌は世界に知られ、ジャズの定番になった。とすれば、その歌い方をある程度踏襲するのが「先輩への礼儀」ではないのか。そして、それを変えるなら、それ以上のものになるという確信があってその行為は許されるだろう。
ところが、まったく作曲の才能、つまりアドリブの才能の無いポール・アンカがアドリブで歌ったために、「アドリブという行為の致命的欠点」が私の前に明瞭になったわけである。
アドリブとは、原曲という名画、美しい織物を土足で踏みにじる行為である。
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