「AERA」所載の北原みのりの文章だが、これについて考察してみる。
フェミニズムとの関係は別として、売買春というのはなかなか哲学的な考察課題であるし、恋愛による性交は否定されないのに、なぜ金銭授受を伴う性交は否定する女性が多いのか、というのは面白い考察課題だと思う。つまり「恋愛だから」「愛があるから」という名目があれば、性交は女性に大いに推奨されるわけだが、それは売買春と何が本質的に違うのだろうか。ついでに言えば、恋愛でなくても、あるいは愛などなくても、行きずりの男とのセックスも女性はまったく否定しないようだ。むしろそういうアバンチュールを欲するように見える。
とすると、問題は「金銭授受があるか無いか」だけに問題は収束するようである。
では、金銭授受を伴う性関係はそれほどの悪なのだろうか。
おそらく、売春が不可能になると生活が不可能になり命を絶つしかない性産業従事女性の数は膨大なものだと思う。そうした女性のかなりの割合は、他の仕事に就くことが困難なのだろう。それは今の社会の不備ではあるが、ではその「客」である男性は、下の記事のようにその存在を徹底的に否定されるべきものなのだろうか。
(以下引用)
Colabo仁藤夢乃さんの「キモイ」は女性を守るセンサー 少しでもマシな世界になりますように〈dot.〉
私が仁藤さんの名前を知ったのは、2016年に女性たち自らが企画した、「私たちは『買われた』展」だ。女性たちが自らの体験を文章にし、思いを写真にして展示したもので、今も各地で行われている。ブランドものほしさ、遊ぶ金ほしさに「売っている」と考えられていた女性たちが必死に出した声。「売った」のではなく「買われた」と言いかえることで見えてきたことはあまりに大きかった。 「買う男の人は率直にキモイです。あの人たちは女の人を下に見ているから」 仁藤さんを通して、そんな話をしてくれる女性たちに会ってきた。「ご飯をごちそうする」と言われコンビニでおにぎりを1個もらい、そのまま男の家に連れて行かれた女の子の話は強烈だった。中学生にしか見えない彼女の手をにぎり、堂々と交番の前を歩いたという。そういう男たちのずるさ、傲慢さ、暴力性を「キモイ」と力強く表現することが、彼女たちの唯一の抵抗でもあった。 仁藤さんに話を聞くなかで、彼女が差別的なものを感じると瞬時に、「キモイ」と言ってスッと心を閉ざす瞬間を何度か見てきた。それはまるでサバイブするための本能のように、仁藤さんのなかにあるセンサーなのだと思う。そのセンサーがあるからこそ、仁藤さんは女性たちを守れ、そして女性自身にあるそのセンサーを、鈍らせなくていいんだよ、と言い続けているのだ。女の子が「キモイ」と感じられる感性は、自分を守るための大切な直感だから。もう身を守るために緊張しなくていい、ご飯を食べて、話をして、安心してぐっすり眠れる場。食い物にする大人ではなく、対等に話せる優しい関係があるのだと信じられる場をつくってきたのが、Colaboだ。そういう仁藤さんが、政治問題に率直に発信し、買春する男性をまっすぐに批判するのは当然だろう。
(引用終わり)