現代倫理学概論 #2 愛と性の倫理
序文に書いたように、この一文は宮本常一の「土佐源氏」に触発されて書き始めたのだが、厳密に言うと、その一節に強い刺激を受けたのである。それは、こういう言葉だ。
「どんな女でも、やさしゅうすればみんなゆるすもんぞな。」「男ちう男はわしを信用していなかったがのう。どういうもんか女だけはわしのいいなりになった。」「わしにもようわからん。男がみんな女を粗末にするんじゃろうのう。それですこしでもやさしうすると、女はついてくる気になるんじゃろう。」
題名から分かるとおり、これは土佐の「光源氏」とも言うべき男の生涯を、女出入りを中心に聞き書きしたものだが、その男は、かつての時代の賤民とも言うべき馬喰である。しかし、そういう仕事の男でも、あらゆる場所であらゆる女が彼を相手にしてセックスをした、という事実が、私に「貞操観念」とは何か、という疑問を抱かせ、そこから倫理全体を根本的に見直すというテーマが生じてきたのである。
「どんな女でも、やさしゅうすればみんなゆるすもんぞな」
という言葉は、女性についての私の乏しい知見に合致するものである。いや、私自身は、結婚した以上は厳しい守操義務があり、それを守らないなら結婚する意味は無い、という考えなので、一度も浮気をしたことはないし、女房もたぶん浮気をしたことはないと思うが、世の中のあらゆる事件を概観する限り、女性には本来貞操観念は無い、と結論するのが妥当ではないかと思う。
つまり、夫婦間あるいは恋人間に守操義務がある、と思っているのは男だけではないか、ということだ。あるいは、現代の若い人なら、男でも、そういう観念を持たない人間も多いのかもしれない。つまり、貞操とか貞潔というのは、滅び去った倫理である可能性は高いのだが、では、それは無意味な観念なのか、ということを改めて考えてみたい。
たとえば、自分の愛する相手が、自分の目の前で他の男(あるいは女)とセックスをする光景をあなたは何の苦痛もなしに見ていられるだろうか。そこに苦痛があるとすれば、誰かを愛するということは、必然的に相手を自分だけのものとしたいという気持ちを伴うのではないか。その独占欲は、貞操という観念の母体である。自分の愛する相手を他の男(他の女)と平気で共有できる、というのは、それは果たして愛なのだろうか。
もちろん、結婚における守操義務は、お互いの愛情なぞは前提としていない。愛情が無くなったから浮気をしてもいい、というのは、結婚制度自体の無意味化である。
そこで、では結婚することの意味は何か、という問題が出てくる。
お互いの恋愛感情が無くなったら、結婚する意味も無くなる、というのはアメリカ的な幼稚かつ粗雑な考えであり、その結果が両親の離婚による不幸な子供の大量生産である。
かと言って、完全に愛情を失い、むしろお互いに憎悪の感情すら持っている夫婦がただ義務や世間体だけのために夫婦であり続けるというのも不幸な人生だろう。
以上のようなことを土台として、愛と性と結婚の「現代倫理」をもう少し考察してみたい。
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