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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

女にとって大事なものと無意味に思うもの

山口瞳という作家を私はさほど好きではないが、たまたまそのエッセイ集を図書館で借りて読んでいると、その中に面白い一節があった。これは女性論としてかなり鋭いところを突いていると思う。とは言っても、山口瞳自身の考察ではなく、知り合いの棋士の言葉であるらしい。

(以下「本能にひそむ魔性のもの」より引用)赤字部分はブログ筆者による強調。

ある将棋指しは、女性は我慢することができないから将棋には向いていないと言った。ジッと我慢の手が指せない。相手が攻めてくるのを耐えるということができない。その証拠に、将棋の女子プロは、例外なく攻め将棋である。喧嘩っぽい将棋を指す。受け将棋は一人もいない。
また、別の高段者で、女性を指導している人が、こう言った。
女は、相手の手を評価することができない。評価したり味わったりして、それを学びとるという心構えが希薄である。相手がうまい手を指すと、ズルイことをやられたと思ってしまう。カーッとなる。口惜しがる。それでは進歩しません」
(中略)
女性の多くは、勝負事なんかバカバカしいと思っているだろう。それは正しいと思う。


(以上引用)


女性は我慢することができない、というのは「勝負事(フィクショナルなもの)において」であり、男との付き合いにおいては異常な我慢強さを見せることが多いように思う。とんでもないDV男やヤクザや犯罪者から別れられないという女性を見ると、男である私には理解ができないが、要するに、時々少しやさしいところを見せ、時々寝さえすれば男のひどいふるまいも我慢するように女性はできているようだ。つまり、「生殖本能」と、それに結びつく「性欲」(これを女性は「愛」とか「恋愛」と思っている。)が女性の最大の原理原則なのであり、そこには計算が働かないようにできているのだと思う。
しかし、事が愛情とかセックス(これに食う事やファッションも含めてもいい。)と無関係になると、それは「考えるのも馬鹿馬鹿しい」からロクに考える努力もしなくなる。もちろん、家庭や教師による洗脳によって、思春期までは従順に学校の勉強もするが、それは「人に劣りたくない」という見栄やマウンティングによるものではないか。学問(これもまた現実生活と遊離したフィクションであると言える。)そのものを面白がる女性は少数派だろう。それは「生殖」とも「性行為」とも関係が無いからだ。


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