論理と感情
人間は感情的になると論理的思考ができなくなる、というのが私の持論だが、これは誰でもそう思っているだろう。ところが、論理性を重んじる人間は日常生活においても、思考の中から感情を排除する傾向があるのではないだろうか。つまり、人間同士の感情のやりとりが苦手になるわけだ。
これは、子供や女性を相手にすると大きな欠陥になる。子供には論理は通用しないし、女性は感情生活を非常に大事にするからである。自分や他人の感情をああでもないこうでもないと飽きることなく考えるのは女性の特質だというのは私の偏見だろうか。
女性の場合は、男のようにどんな行動でも妥当な理由を求め、他人にはその説明を求めるというより、「黙って察しろ」と相手に要求するのが多い気がする。それは感情は論理ではないからだ。つまり、説明は難しいし、説明しても(論理ではないから)相手は納得しない。察するしかないのである。エルヴィス・プレスリーの「振られた気持ち」だったか何かの歌の中に「理由は感情を説明できない(reason can't stand in for feeling )」という一節があったのは、そういうことだろう。
モテる男というのは、要するに「女性扱い」、つまり、「大事なのは論理じゃないよ」が上手いわけで、その瞬間瞬間が満足なら、その男がいかに下種だろうが不誠実だろうが許容することが女性には多いような気がする。まあ、面倒くさくなれば黙って体に触れ、抱きしめたりキスしたりするのが得策だろうと分かっていても、論理で決着をつけないと問題は解決しない、というのが理系人間(論理型人間)の特徴かと思う。
ただし、「微細で複雑な感情計算」という面では男はだいたい女性にはるかに及ばないわけで、女性の書いた小説や漫画を読むと、女性の内面描写が凄いなあ、と思うことが多い。まあ、男の感情生活が小学校の算数なら、女性の感情生活は高等数学である。
とは言っても、ただひとつ、私には分からないことがある。これは女性だけの話ではないが、誰かを好きになる、その理由が実にいい加減で曖昧なことである。顔やスタイルが美しい異性を好むのは共通してはいても、実際に「惚れる」となると、なぜ、こんな相手に、ということがよく起こるわけだ。特に女性にはその「意味不明の恋着」が多いように思う。これは、スィフトが「ガリヴァー旅行記」のラピュタの巻で見事に描いている。確か、夏目漱石がこの部分を引用して「女には茶人が多い」と書いていた気がする。要するに、普通の論理では理解できない行動をするものだ、ということだろう。
これは、子供や女性を相手にすると大きな欠陥になる。子供には論理は通用しないし、女性は感情生活を非常に大事にするからである。自分や他人の感情をああでもないこうでもないと飽きることなく考えるのは女性の特質だというのは私の偏見だろうか。
女性の場合は、男のようにどんな行動でも妥当な理由を求め、他人にはその説明を求めるというより、「黙って察しろ」と相手に要求するのが多い気がする。それは感情は論理ではないからだ。つまり、説明は難しいし、説明しても(論理ではないから)相手は納得しない。察するしかないのである。エルヴィス・プレスリーの「振られた気持ち」だったか何かの歌の中に「理由は感情を説明できない(reason can't stand in for feeling )」という一節があったのは、そういうことだろう。
モテる男というのは、要するに「女性扱い」、つまり、「大事なのは論理じゃないよ」が上手いわけで、その瞬間瞬間が満足なら、その男がいかに下種だろうが不誠実だろうが許容することが女性には多いような気がする。まあ、面倒くさくなれば黙って体に触れ、抱きしめたりキスしたりするのが得策だろうと分かっていても、論理で決着をつけないと問題は解決しない、というのが理系人間(論理型人間)の特徴かと思う。
ただし、「微細で複雑な感情計算」という面では男はだいたい女性にはるかに及ばないわけで、女性の書いた小説や漫画を読むと、女性の内面描写が凄いなあ、と思うことが多い。まあ、男の感情生活が小学校の算数なら、女性の感情生活は高等数学である。
とは言っても、ただひとつ、私には分からないことがある。これは女性だけの話ではないが、誰かを好きになる、その理由が実にいい加減で曖昧なことである。顔やスタイルが美しい異性を好むのは共通してはいても、実際に「惚れる」となると、なぜ、こんな相手に、ということがよく起こるわけだ。特に女性にはその「意味不明の恋着」が多いように思う。これは、スィフトが「ガリヴァー旅行記」のラピュタの巻で見事に描いている。確か、夏目漱石がこの部分を引用して「女には茶人が多い」と書いていた気がする。要するに、普通の論理では理解できない行動をするものだ、ということだろう。
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