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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

観る人が違えば別の人間が現れる

人間というものをあまり単純に観るべきではない。或る人間がどんな人間かは観察する人がどういう目を持っているかによる。視角が変われば、別の人間が立ち現れるのだ。その一例が、「嵐が丘」の作者エミリ・ブロンテの目に映った兄ブランウィルの姿である。大方の人の目には素行不良の大バカ者と思われていたブランウィルの魂の一部が、「嵐が丘」の主人公(と言うべきだろう)ヒースクリフにかなり投影されていると言われる。
女性が男を愛する時には、その人間の秘められた長所をこの上なく拡大して愛するのではないか。だから、世間的には「なぜあんな素晴らしい女性がなぜあんな屑のような男を愛するのか」と不思議がられることになる。そして、それは、世間が正しくてその女性が馬鹿だということにはならないのである。
おそらく、エミリには、この年の近い兄の美点が他の誰よりもよく分かっていたのだろう。道徳に厳しい社会の目からは只の放蕩児、不良息子としか思われなかったブランウィルの精神的美点(他からの評判を気にせず、思いのままに放蕩することも、見方を変えれば、一種の勇気があるということであり、自分の中の自然な欲望に忠実であり正直だとも言える。)が彼女には見えていたからこそ、それが「野生児」ヒースクリフとして再生されたのだろう。しかし、エミリは兄の弱点や欠点(お坊ちゃん気質や薄志弱行)が見えなかったわけではない。そちらは、作中のヒロイン・キャサリン(キャシー)の兄、ヒンドリとして使われていると思う。
つまり、ヒースクリフとヒンドリは、どちらもエミリの兄ブランウィルの二つの側面なのである。
だから、人間を単純なものと観るべきではない。
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