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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

自己心理学と「トラウマ」問題

「シロクマの屑籠」記事の一部で、メモ、あるいは思考材料としての保存であるが、内容に感心したわけではない。そもそも、内容があまりに漠然としていて、コフートという人の思想がどういうものか、これだけでは分からない。
ただ、「自己心理学」と言うと事々しいが、自分自身の心理の分析というのは、私の習慣のようなものなので、関心を持っただけだ。
で、ナルシシズム(動物の「自己保存本能」と本質は同じ)が、人間の心理の核だというのは、当たり前の論だと思うが、あまり世間の人は気にしていないようだ。常に、彼らの目は外部に、特に「外部の敵」に向けられる。だから行動が支離滅裂で的外れになる。(内部の敵はひとつだが、外部の敵は複数で、錯綜した利害関係や異なる動機を持っているからだ。そもそも、相手が敵かどうかも確かではないのだから、その正しい対応は、「何もせず敵の自滅を待つ」だろう。もちろん、ビジネスの場ではそうはいかないが、ビジネスでは基本的に敵味方の区別は明白だ。そこに非人道的で悪質な合理主義の発生源もある。「あいつは敵だ。敵は殺せ」である。)

私は、「GS美神」の横島の「己れほど信じられないものがあるかー!」というのを、心理学の絶対的基礎だと思っている人間だが、その信じられない自分をいかに探求するかを趣味としている。
で、コフートとやらが何を言っているのか知らないが、この「自分自身を人は知らない」というのはフロイトが精神分析学の基礎とし、ソクラテスがその哲学の土台としたものだ。そして、そこに「無意識」という領域を精神分析学の「補助線」として置いたのは、フロイトの偉大な業績だろう。
ただし、「夢」というものに過大な意味を置いているのが、欠点ではないか、と思う。夢は昼の精神活動の残滓である、というのもフロイトが見出した偉大な発見だと思うが、それが何かの大きな精神的外傷(トラウマ)を示しているかどうかは、議論の余地があると思う。
精神的外傷は、無意識の中にではなく、繰り返し意識に上る想念の中にこそあるのではないか。私で言えば、小学校や中学校での運動(スポーツ)の場での屈辱である。これが、私を決定的に気弱な、劣等感の強い人間にしている。
スポーツとは基本的に「戦い」だから、私の「戦争憎悪」の遠因も、案外そこにあるのかもしれない。

注:「あいつは敵だ。敵は殺せ」は、埴谷雄高が、政治(あるいは政治的闘争)の根本原則として(たぶん、批判的に)言ったものである。これが、すべての戦争の(隠された)モットーであるのは言うまでもない。(「戦闘」においては、このモットーは隠されたどころか、ほとんど唯一の生存条件になる)

(以下引用)

特に重要なのがH.コフート『自己の修復』ですね。より正確には『自己の分析』『自己の治癒』も含むコフートの自己心理学三部作です。二次元でも三次元でも、遠くのインフルエンサーでも近くの先輩や後輩でも、向社会的な心理的欲求とその充足*1について、私はコフート三部作に基づいて考えています。これを下部構造として、ポスト構造主義的ないろいろが乗っかってあれこれを考えているわけです*2
 
フロイトやその弟子筋の自我心理学の述べてきた事々と比較して、コフートが創始した自己心理学・およびそのナルシシズム論は、核家族化が進行し一人世帯が増えた社会によくフィットしていると私は考えています。自己心理学は、統合失調症や双極症など明確な精神疾患を紐解くものではありません。コフートは自己愛パーソナリティ(障害)からスタートして、やがて、20世紀後半以降のありふれた個人のありふれた心理的欲求とその充足を取り扱えるナルシシズム論へと転向しました。大筋として彼は、ナルシシズムの否定でなく、ナルシシズムのメカニズムとナルシシズムの成長可能性について記しています。
   
リースマン『孤独な群衆』でいえば、フロイト時代に相当する「内部志向型人間」の次である「他人志向型人間」の心理的欲求とその充足にしっくり来るのがコフート(とその自己心理学)、といえばイメージが伝わるでしょうか。
 
そしてコフートの理論立ては、心理的欲求とその充足に際して、友達や師匠や恋人といった他者が実際にどうであるかよりも、その人自身にとってどのように体験されているのかを重視しています。ナルシシズムをみたしてくれる対象を「自己対象」と呼び、ナルシシズムがみたされた体験を「自己対象体験」とわざわざ呼ぶのもその反映です。自己対象の論立ては人間だけでなく、「萌え」や「推し」の対象であるキャラクターにも適用できます*3。私が「萌え」や「推し」について語っている時は、必ずといって良いほど背景にはコフートの論立てがあり、その人自身にとってキャラクターがどのように体験されているか、ひいてはどのような心理的欲求のニーズに基づいて、どのように欲求充足が行われているのか(または欲求充足がうまくいかなかったのか)を念頭に置いてしゃべっています。
 
ただし私は、そのコフートと自己心理学も絶対的なものでなく、相対的なものだとみなしています。たとえば、さきほど挙げた『孤独な群衆』でいう「内部志向型人間」の時代にはコフート三部作はあまり有効ではなく、フロイトのほうがしっくり来るのではないでしょうか。狩猟採集社会にもコフート三部作は不向きでしょう。
 
私は精神分析諸派がわりと好きですが、ひとつの精神分析モデルを絶対視するより、時代や社会によって相対化され得るモデルとみるのが好きです。そうしたわけで、私がコフートに基づいて「萌え」や「推し」について考える際にも「でも、これって核家族化や一人世帯化の進んだ社会の話ですよね?」というリミテーションをいつもくっつけています。そういうリミテーションの話も本当はもっとしたいですが、まだできていません。その話は21世紀後半の社会状況に見合った精神分析モデルがどんなものなのか、考えることにも通じているでしょう。
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