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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

小林秀雄の文章とレトリック

小林秀雄の評論を、私は「詩人による論文」だと思っていて、それは時には、凡人には思いつかない素晴らしい「未知の世界を理解する鍵」を与えてくれるが、その表現自体は難解なレトリックの連続であって、私などは、書かれた半分も理解している自信はない。そして、その言っていることがすべて素晴らしいわけでもなく、深遠であるわけでもなく、レトリックのためのレトリックに堕している場合が多いという印象がある。

ここで、レトリックとは何かを小林秀雄的なレトリックで言えば、「通常の会話や通常の文章が歩行であるとすれば、レトリックとは言葉の舞踏である」と定義できるだろう。
そして、舞踏の例に漏れず、失敗したレトリックは地面に転倒したりする等の無様な姿をさらすのである。
次の文は小林秀雄の「様々な意匠」からの引用である。

「『大衆文芸』とは人間の娯楽を取り扱う文学ではない、人間の娯楽として取り扱かはれる文学である。」

上手の手から水が漏れたというべきだろう。どこの世界に「大衆文芸」を「人間の娯楽を取り扱う文学」と考える馬鹿がいるだろうか。ならば、人々は推理小説を「殺人という『娯楽』を取り扱う文学」と考えている、とでもなるのか。
これは、小林秀雄お得意の、「世間の馬鹿(偉い人間や著名作家や著名評論家も含む。)はこう考えているだろうが、それは間違いであり、本当はこれが真実だ」という、「対比法」による自分持ち上げのレトリックである。
基本的に小林秀雄の文章は、「説明抜きの断定」の連続であるから、読者の側はその断定の正当性を、自分の頭を悩ませて考えて納得しなければならない。しかし、人間の脳というのは外界の理解しがたい事柄を勝手に合理化する性質があるから、小林秀雄の断定にもほとんど合理的な解釈をつけて先に読み進めることになる。そして、合理的な解釈ができたら、自分が賢くなったようで嬉しいから、小林秀雄の「示唆」を価値あるものだったと思うわけである。
と、憎まれ口を叩いたが、小林秀雄の書いた文章の中には、本当に貴重な言葉がかなりあるので、特に若い人は読む価値のある作家(評論家)なのである。まあ、9割までは詩人の譫言と思えばいいが、中には高価な宝石もたくさんあるわけだ。




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