教団にいると、つねに「布教」を言われます。

これは、どっちからみても当然のことです。

増やしてしまった教団施設を守り続けるにはお金が要ります。

施設そのものを稼働させるだけでもお金が要ります。

信者の数が減っては困るのです。献金しか資金源がないわけですから。

また、我が教団こそ、人々を救うという、強い自信と矜持があれば、少しでも多くの人を救おうとするのが宗教というものです。

そのために、壮大な寺院が必要だろうか?という疑問もあって当然だと思う。

でも、壮大な寺院は、壮麗な信者集団を反映し、社会の信用を裏付ける。
建物が有する「信用」も、現実的には必要だ。

というわけで、物心両面で布教は欠かせない。

それは、承知している。

それに、ここに、あからさまにご利益話をかいても、いいものなら、信者の中で、私ほど、多くの大小さまざまなご利益話を持っている者はいないと思う。

なんだけど・・・宗教って、なんだろうと、いつも考えている。

そして、非常に多い宗教の特徴は「天に増します我らが父」であり「聖母マリア」であり、つまり、幼い日、両親のひざ元での「あの安らぎ」が、恋しいでしょう。

ここには、それがありますよ!

というスタンスなんですよね。

父母に抱きしめられたあの懐かしい温かい感覚が、ここにはあります・・・さあ、私たちの仲間になりましょう。

これが、教団が信者を増やすときのキーポイントです。

だから、エホバの証人は、お互いを「兄弟、姉妹」と呼ぶ。もちろん、カソリックも「シスター」ですよね。

ところがね。

私の場合、正直に言っていいなら、この人生で、もっとも私に対して残酷だったのは「生みの母」でした。

ようやく分かれることができたのに「母の懐に戻っておいで」などと、教団から声をかけられたら、とるものもとりあえず、走って逃げる。恐怖しかない。

だから、「ここに来たら、父母に再会できる気持ちがする。」などという誘い言葉は、絶対に言えない。再会したくないもの、私自身が。

はっきり言って「殺し文句」ですよ。
「ここには、あなたの真実の親がいる」「ここが、本当のあなたの家です」

そして、それが布教のポイントだったということも知っています。

ところがね、最近頻発する「親殺し」
親は、恋しくもない。親とはうまくいってない。親は殺したいほど憎い。愛するがゆえにさらに憎しみは深い・・・そういう親子が激増しているのです。

毒親ブームです。

だから「さぁ、こっちへいらっしゃい。あなたの真実のお父さん、お母さんに会えますよ」という、誘い言葉は、今では、ほぼ、魔力を失っているのです。

母が「おふくろさん」でなくなって、納税者になって、子供を保育園に預け、子供との真実の触れ合いをうしなってからというもの。

殺し文句が功を奏さなくなって、布教が、難しくなっている・・・どこの宗教も同じですよ。

けど、私は、実の母は大嫌いだけど、教団に残った。


何が私を引き止め、なぜ、私は、ここに骨をうずめ、さらに、死んでからも、この教団の霊団にい続けようと決心したのか?


最近、悩み事がなくなったので、そういうことを、考えるようになりました。

悩み事、欠乏のあるうちは、どうやったら、ご利益を引き出せるかのノウハウばかり考えていました。

でも、もう、何もいりません。これで十分です・・・という、局面まで来て、なお、ここにい続けようとするのはなぜ?


私の場合は、きっと、「生きる」ということと、「信じ仰ぐ」が、リンクしたからだと思います。


人生には、いろんな嫌なことがあります。
信念通りに生きようとしても、生活のため、やむなく信念を曲げざるを得ないことばかりです。

でもね、私が、ここに来たのは、心底あこがれる「まっすぐな生き方」を通したかったから。

若山牧水の

白鳥は、かなしからずや
海の青、空の青にも、染まず漂う

真っ白の命を、何色にも染めずに生きとおしたい。穢れを排して、貫き通したい。

可能ならば、そのように生きたい。

心の底、奥深くに、自分の生きる目標として、その願いを持っているのです。

欲や、得や、ケガレから離れて、命の本来の姿を全うしたい。

その、奥の奥に秘めた願いを、懸ける人を見つけた。

この人の後について行こう。

この人を先達として、何もかも捨ててついて行こう。

すべてを捨て、すべてを懸けて、生死の境を越えても、ついて行こう。

その理想を、教団の教主様に見た。

だから、人としてあるべき姿を貫こうとした、可能な限り。
弟子として恥ずかしくないように。

自分で自分が許せるように。

たとえば、キリストの12使徒が、殉教に会いながらも、キリストに従った。

それは、己にとって、何よりも大切な、まさに心を守って生きるために大切なこと。

その一点をつかめば、あとは、その理想に照らして、道を選んでいく。

つらくてもね、苦しくてもね。己に正直であるためにね。


私は、ここで、自分の理想に出会ったんだと、ようやく最近気づいたのです。
だから、そのためには、命も捨てる。
命を捨てるとは、生命のある限り、信念に即して生き抜くということです。

他から見て「そんなに熱心に信心したのに、どうして?」みたいな不幸もあります。

私は、ごく最近まで「弟が、信心の功徳で、立ち直り、社会復帰できて、就職して、結婚して幸せになったのなら、大きな顔をして、布教もできる。

弟の引きこもりが入信動機なのと、話して、で、どうなったの?

ん、25年後に、安らかにお浄土にひきとってもらえた・・・で、第三者を納得させられる?」と、なかば、愚痴っていました。


そういうと、親の後に従ってお寺に行っている娘でさえ

「ママ、わかるわ。どこに、ご利益があったの?問題は解決したの?と言われたら、返事できないよね」

「うん」

でもね「問題が解決するとかしないとか、どうしたら、解決するとか、考えるのはご利益信心なんです」と、言われた・・・そうだと思う。

では、ご利益信心ではない正しい信仰って、なに?

ご利益も無いんじゃ、誰も入信なんかしないよね。

私の思いは、堂々巡り。

実はね


を、読まれたある読者さんから、心のこもったメールをいただきました。

その方は「家族に精神疾患」を抱える悩みはよくわかります・・・と前置きされて、ご自身の人生を語ってくださいました。

奥様が精神疾患であったのだそうです。
私より深刻だけど、ふつう、こういうケースは、夫は、離婚して逃げるものです。

でも、その方は、別に自分が惚れて一緒になった相手でもないいわば、見合い結婚なのに、ご自分の責任から逃げようとはされませんでした。

そこで、キリスト教の牧師になろうと決心されたのだそうです。

幸い、勤め人としての責務も全うできて、牧師としての責務も果たし、多忙な暮らしの中で、お子様たちも立派に成人されて、

よい老後になりました。

ここに、いくつかの私と共通する点があります。

「責任から逃げなかった」
「宗教を支えにした」
「すべてを貫き通し平安な港についた」

長い人生には、いろいろいろいろあります。すべての刻々を聖人君子のように過ごせる人などいるはずもない。

でも、心の奥底に、人としての理想を追い求め、胸突き八丁を、上り詰める。

それが、生きるっていうことじゃないか。

でも、本当につらい時、すがらずにおれないとき、すがってもいいんだよ。

そう言ってくれる天の声なしでは、やはり、なしえない。

人が人として、立派に生きぬくために、人は神を求めるのだと思う。

それがご利益信心ではない真の信心。

でも、世間にはご利益信心しかないと言っていいほどだから。

なかなか、信仰を勧めるのは難しい。

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