「独楽」の本質
記事の一部だが、老年の「美学」を「孤独に耐えること」としているのが面白い。つまり、我田引水すれば「独楽」である。
独楽の本質は「自分自身(の頭脳)を相手に楽しむこと」である。周りにどれほど素晴らしい存在があっても、その素晴らしさを感じ取れる感受性や知識があっての話だ。つまり、味覚障害者に最高の料理や最高の酒を与えても無意味である。逆に、一粒の露の中に最高の宝石の輝きを見出せるなら、その人には最高の宝石と一粒の露は等価である。
(以下引用)
独楽の本質は「自分自身(の頭脳)を相手に楽しむこと」である。周りにどれほど素晴らしい存在があっても、その素晴らしさを感じ取れる感受性や知識があっての話だ。つまり、味覚障害者に最高の料理や最高の酒を与えても無意味である。逆に、一粒の露の中に最高の宝石の輝きを見出せるなら、その人には最高の宝石と一粒の露は等価である。
(以下引用)
筒井康隆氏「若くもないのに若さを誇示してもはじまらない」
欲望が失われてしまっていたら悪事を企む気も失せてしまうから、ちょい悪老人を志すのは無理だろう。だからと言って品行方正な老人になっては、実はちょい悪老人以上に煙たがられる可能性がある。
実はここからが老人の美学が発揮されるべきなのだ。以前にも書いたが老人の美学とは実は孤独に耐えることなのである。若い連中に張りあおうとすればどうしても他者の中へ行かねばならない。
出て行くと余計なことを言いたくなる。誰かの言うことすることについていやそれは違うと自分の意見を主張したくなる。ここから老害というものが始まるのである。しゃしゃり出たくなる欲望を抑え、用もないのにうろちょろせず、じっと我慢して孤独に耐えるのが老人の美学なのだ。
老人同士の集まりというものがある。しかしあれに加わるのも考えものだ。自我の強い老人が必ずいて、ひどい目に遭う。女性同士は仲良くやっているように見えるが、あれはあれで何やかやと陰湿な反目があるのではないか。やはり単独で孤高の道を選び、と言ってもそんな生き方を威張るのではなく、なんとなく存在しているのが一番だと思う。
そこから先のことになると、自分が体験していない世界に入っていくことになり、ここで論じることはできない。
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