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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「東海アマ」氏の天皇制否定論

「東海アマ」ブログ記事の一部で、氏の「天皇制否定論」(「天皇制」という言葉自体が妥当かどうかという議論もあるが、それは措いておく。)のエッセンスのようなので参考までに転載。
私自身は天皇制肯定論なのだが、その理由は自分でもあまり見つめたことがない。まあ、前天皇ご夫妻(現上皇ご夫妻)への敬愛の気持ちがその土台にあるかもしれない。ただし、若いころの私は現上皇(当時の天皇)など、「ただの人」としか思っておらず、天皇時代の絶えざる公的活動を長年見続けて、敬愛の気持ちを抱くようになった者だ。戦前は現人神でもあった昭和天皇より平成天皇ご夫妻ははるかに神々しさを感じさせた。顔は人格を顕すのである。
下の記事は、天皇制への論考をいずれする参考として載せただけである。

(以下引用)

天皇制に関する議論も、放射能被曝と同じように完全にタブー化されていて、公的メディアも、まず絶対といっていいほど取り上げないし、検索からも排除されている。
 だが、「タブーを作る」ことの意味は、タブーを解消するポテンシャルを生み出すことであり、すなわち、タブー意識を排除しなければならない力学的必然性を生み出すことである。

 だから、ほとんどのメディアが天皇制をタブー化していることは、むしろ天皇制を廃止する力を生み出すことになる。
 天皇を神格化することは、「天皇家に人間としての自由と権利を!」という合理性、意思を生み出すことになる。神格化の嘘を排除し、真実を知りたいという欲求を拡大することになるのだ。

 私は、天皇制の存在こそが死刑制度を生み出していると、繰り返し糾弾してきた。
 
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1009.html

 天皇という合理性のない、虚構を容認することが、死刑制度という合理性のない劣悪な報復主義の制度を生み出している。
 こうした権力主義の虚構こそ、日本人の自由と人権を破壊する張本人である。
 この意味で、日本に、本当の自由と人権が来るときは、天皇制が死滅するときである。

 このとき、天皇家の人々は虚構の拘束から解放され、真実だけをよりどころにして、はじめて一市民としての権利と自由を保障されることになる。
 天皇制は、歴史と人間の合理性という観点から、死滅してゆかねばならない制度である。
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