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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

検察という存在

我々民間人は公的組織の実際についてほとんど知らない。検察などもそのひとつだろう。そもそも、警察と検察がなぜ分かれて存在しているのか、高校生や大学生でも理解していないだろうし、私ももちろん理解していない。だが、警察がそのまま容疑者を裁判にかけることが可能だとしたら、そこに何か恐ろしい結果が待っている、という想像はつく。しかし、では警察と司法の間に検察を置くことで、すべて解決しているのだろうか。現実には、検察が起訴したら99%有罪になるという恐ろしい現実がある。しかも、その中には後に冤罪だったと判明した事件もたくさんあるのである。そしてまた、与党政治家の犯罪のほとんどは検察が立件しないという現実がある。

(以下「紙屋研究所」から引用)

救援新聞インタビュー「検察は、何故有罪に固執するのか」

 国民救援会の機関紙「救援新聞」2020年11月5日号で、「検察は、何故有罪に固執するのか」として、検事の経験のある市川寛(弁護士)が、笹倉香奈(甲南大学法学部教授)のインタビューに答え、その一部が紹介されている。

 大変興味深く読んだ。

 

 わからない人のために簡単に解説しておくけど、刑事裁判で無実の人が「有罪」とされ、刑務所に送られてしまう(あるいは死刑になってしまう)ということがこの日本ではたくさん起きている。「冤罪事件」と呼ばれるものだ。

 裁判はふつう3回までやることができるけど、それが終われば有罪か無罪かが決まり、刑も決まる。だけど、その後でも裁判をやり直す道がある。それが「再審」と言われているもので、「再審法」という法律で定められている。

 しかし、その「再審」にこぎつけるのは、針の穴をラクダが通るように難しいとされている。

 そうした中で、「再審法の改正を」ということで社会的な運動を広げているのが、国民救援会であり「再審法改正をめざす市民の会」なのだ。このインタビューはその運動の一環であるWEBセミナーの中で行われたものである。

 

 犯人を探して捜査をするのは警察の仕事のように思うかもしれないが、それはあくまで「この人があやしい」という目星をつけるところまでであって、犯人と思しき人が分かって(つかまって)、警察がざっと調べたものを引き継いできちんと捜査し、裁判にかけるところまでやる正式な機関は検察なのである。*1

 市川の証言が貴重なのは、10年以上の検察経験を持ち、その組織の内部の空気や論理をよく知っているからである。無理やり犯人に仕立て上げて、何としても有罪にしてしまおうとする空気がどうやって生まれるのかがリアルにわかるかもしれないのだ。

 

 市川は検察とはどういう組織なのかと聞かれて次のように答える。

一言でいえば、保守的な組織です。裁判員裁判が始まっても、取り調べの録音・録画が始まっても、「できることなら、ずっとこのままでいたい」と願っている組織です。検事は証拠を全部見ているため、「本当のことを分かっているのは検察だけだ」と思っている独善的な組織だと言っても良いと思います。

 権限を使っていろんなところに立ち入って証拠の品々をおさえ、証言を集めるのは検察だけができることだ。弁護人(弁護士)は、その証拠を見たいと求めることはできるけども、それを全部見せる義務は検察側にはない。だから、弁護士は、自分たちで独自に弁護のための証拠を集めるしかないのである。

 証拠が全部検察にある。

 そうなると、市川がここで述べているような「驕り」が生まれるのは、うなずける。

 

検察は、起訴する前と起訴した後でスタンスが全然違います。起訴する前は、結構融通が利くことがあります。しかし、一旦起訴してしまった後は、主任検事一人の問題ではなく、検察組織全体の問題となるので、組織を挙げて絶対に有罪を取ろうとしてきます。

 

 起訴、つまり正式に裁判にかけますよと宣言してしまうと、もう組織のメンツの問題になってしまうのである。

 検察からすると、起訴というところまでやったのは、組織を挙げて相当自信をもって「こいつは有罪だから裁判するぞ」と決定したのだから、それを覆す方がおかしいという理屈になる。

強制捜査までして証拠をすべて集めて、とことん分析して、起訴するかをまず担当の検察官が起訴すべきと判断し、上司が決裁という形で2段構えの慎重な判断をして起訴しているので、検察にとっては有罪は99%ではなく100%が当然なのであって、無罪判決を出した裁判官はおかしいし、出させる弁護人がおかしい、もらってきた公判担当検事は無能だということになるわけです。

 これは、まさに「自信」なのだろう。証拠を全部知っている上に、何度も慎重に判断したのだから、「全容」を知らない裁判官や弁護士ごときが分かるはずがない、という、ある意味で正当性のある「自信」だ。ぼくもその組織にいたら、そういう「自信」を持つかもしれない。

 この証拠の開示の範囲には法律のルールがなく、裁判官が決める。だから「いい裁判官」に当たらないと、証拠の全面開示を検察に命じてくれないのである。

 

 そして、再審をはばむもう一つの問題は、裁判所が「もう一度裁判しようか」と決めても、検察が「そんなのおかしい」と抵抗することができる。不服の申し立てであり「抗告」だ。最高裁が決めたことは他の誰も覆せないが、それにさえ不服を申し立てることを「特別抗告」と言う。これをやるのはよほどのことなのだ。

最近の事件でいうと、3月31日に再審無罪判決が出た滋賀・湖東記念病院人工呼吸器事件では、最新の前に検察は、特別抗告までして抵抗しました。それから、鹿児島・大崎事件では複数回の再審開始決定が出ているのに、その都度抗告をして抵抗しました。第3次にいたっては、結論として最高裁が検察を勝たせてしまいました。最高裁の決定を読みますと、検察の特別抗告そのものには理由がないと述べているのに、最高裁が検察を勝たせたことで、検察にとっては成功体験になりました。理由がなくてもごねていれば、有罪判決が維持されるということになったわけです。最近では検察の有罪判決に対する執念のボルテージが上がっているように思えます。

 

 その上で、市川は証拠の全面開示による法改正を求める。

まず、証拠の全面開示です。これは通常審の段階から実現すべきです。再審は誤判究明のための手続きなので、全部証拠を出して審理をするのは当然だと思います。……実は、証拠の全面開示は、現場の検事にとって楽なんです。……証拠を全部開示にして無罪判決が出たのであれば、証拠によって無罪が出たのだから、それで良いと思うのです。

 

  そして市川は、もう一つの論点である「検察の不服申し立ての禁止」についても提言している。

 再審法改正の課題そのものについては、下記で、映画監督であり、「再審法改正をめざす市民の会」共同代表の周防正行がわかりやすく語っている。

www.nhk.or.jp

 

分けて考えろ

 検察庁法改定問題では、検察の独立性を守るために国民の中で大きな運動が起こった。

www.jcp.or.jp

 検察がある意味で「優秀」でありその独立性が守らねばならないと考えることと、その検察が「独善的」であることは全く両立しうる。今学術会議そのものを攻撃する声が一部にあるが、学術会議にいろんな問題があり改革すべきということと、その独立性を死守することとは、全く別の問題である。

*1:「警察官と検察官ってどう違うの?」「いろいろな事情を考えて裁判にするかを決めるよ」など、このあたりのところをやさしく解説しているのは、山崎総一郎『こども六法』(弘文堂)の「刑事訴訟法」の箇所である。



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