思索と「外物の刺激」
これは、翻訳に限らず、他人の書いたものに示唆を得て執筆(は大げさだが)意欲を掻き立てられることはよくある。(森鴎外は漱石の『三四郎』に「技痒」を感じて『青年』を書いた。)翻訳の場合は、だいたいの人は書かれた物を誠実に訳そうとするから、思索がより真剣になるだろう。頭脳のストレッチングになることは確かである。その一方、学校での学習がむしろ頭脳の固定化や洗脳にしかならないのは不思議だが、それは刺激に対する自発性と受動性の違いの結果だろう。
(以下引用)
(以下引用)
翻訳という作業は、自分のアタマからは自然に出てこないタイプのボキャブラリーについて、考える機会を与えてくれる。そういう意味で、結果の享受者にとって文化的雪かきである以上に、作業の当事者にとって文芸的なストレッチングとしての意味を持っていると思う。
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