東海アマ氏の病歴と医学不信
東海アマブログの一記事で、書かれた内容に独断と偏見は多いと思うが、当人の体験談自体は確かだろうし、それは現在の医学の陥っている「学問絶対主義」「科学信仰」「患者そのものの軽視」という欠陥を鋭く指摘していると思う。つまり、役に立つ情報が含まれているのだが、経験から来る結論(特に個々の症例の自己診断)自体の幾つかが独断である可能性が高いのは注意すべきだろう。
(以下引用)
私は、幼い頃から尿に蛋白が出ていた。
今から半世紀以上も前のことではあるが、当時の基準で3プラスはいつでも出ていた。今でも、試験紙に尿を垂らすと3~4プラスになって濃い緑に染まる。
当時の医者は、私について、成人すると腎不全を起こして長生きできないと言っていた。だから、激しい運動はするなと固く指示されていた。
今でも尿蛋白試験紙には、3プラスでは数年以内に透析に進行する可能性があると書かれている。
だが、私は医者の指示を守らなかった。子供の頃は、自転車に乗って、どこまでも遠く駆けていった。
成人しても、時間のある限り山に出かけて歩き続けたのだ。
結局、医者の予言は、大きく外れて、還暦を大きく超えても、ボロボロながら一応生きている。
ときどき、魚や肉を大量に食べると、急性腎不全を起こして尿量が極めて少なくなり、足が膨れてきて眠れなくなり、慌てて五苓散を服用して、尿量の回復に一喜一憂することがある程度だ。
しかし、最近の医療では、蛋白尿について以前のような深刻な見解は持たず、腎臓の繊維化などの病変が見られても、運動療法で治せると考える医師が増えた。
腎不全に対する意識が、医学会全体で大きく変わり、これまでの蛋白尿=運動制限という発想は、今では完全に否定されるようになった。
http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/shippei/ckd/exercise.html
2012年頃から、浄化槽や池に湧いたユスリカの死骸によって間質性肺炎を患った。一時は、数メートルの歩行でさえ激しく息切れがして、寝ていても息苦しく、横になると、辛うじてウトウトできた。
相当にひどいベルクロラ音があって、息切れが収まる気配はなかった。
ネットで調べると、完全に間質性肺炎の条件を満たしていて、余命は、最長で6年と書かれていた。
しかし、その6年は、とおに過ぎたが、まだ死んでない。
確かに、病状は悪化したかのように見えるときもあるが、毎日、必死になって蒸気機関車のように呼吸しながら歩いているうちに、不思議に呼吸能力が回復してくるのだ。
私が病院に行かなかったのは、検査治療のなかに、肺穿刺検査と書かれていたからで、これは太い針を背中から肺に突き刺して、細胞を採取して診断を確定するものだが、治療には何の貢献もしない。
ただ、担当医が論文を書いて評価されるためのデータとして役立つだけなのだが、患者に対する負荷は、背中からナイフを突き刺されたと同じくらい激烈なもので、これが原因で、肺炎を悪化させたり、傷害が原因で死んでしまったりの例が少なくない。
どうせ確実に死ぬならば、なんで医者の名誉のためだけの苛酷な検査をさせられるのか? 間質性肺炎は、ベルクロラ音や呼吸不全、MRIだけでも十分に確定できるはずで、逆効果にしかならない細胞診をやりたがる医者が、どうしても信用できなかった。
実は、細胞穿刺という検査は、日本では、肝臓・腎臓・肺などに広く行われているが、そのすべてで、治療目的ではなく、診断確定目的であり、患者の病変回復に逆効果しかない。西洋医学の穿刺は藤枝梅安のようなものらしい。
日本では「病変を確定しなければ正しい治療ができない」などと屁理屈をこいて、患者をモルモットにしたがる医者が多いが、アメリカでは、検査のためだけの穿刺細胞診はほとんど行われない。他にいくらでも診断方法があるからで、無理にやった場合、患者から巨額の賠償請求訴訟を起こされるのが普通である。
こんなふざけた検査を医療のつもりでカネをふんだくってまで患者に強要している日本の医療界を、私は、どうしても信用できず。交通事故などの外傷は別として、過去20年、内科疾患は一切、病院に行っていない。
それでも、ちゃんと生きているし、もし医療を受けていたら、とっくに死亡していたと思うしかない。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881040030/episodes/1177354054886012993
なぜ、医療が信用できないかというと、医者の養成行程に極めて大きな欠陥があると昔から考えていたからで、まだインターン制度があった1968年くらいまでの医療は、現場主義で、患者と直接相対して、知識との齟齬を自分の感性で克服できる制度だったから、良い医者が育つことができた。
それ以降の医学カリキュラムは、医者の特権意識=プライドを育てるばかりで、知識偏重(頭でっかち)の医者ばかり育てているように思われる。
それを自分の身で痛感させられたのは、1990年前後に、相当に深刻な痛風発作を起こしたときだ。
私は40歳までに日本百名山を完登するほどの山好きで、いつも下りで駆け下りるクセがあったので、膝関節に大きな負荷が蓄積していた。
このため、腎臓障害=高尿酸症から、いきなり原因不明で膝が腫れ上がり歩けなくなった。最初は、変形膝関節症を疑ったのだが、あちこち病院を回っても誰も診断をできなかった。
なかには膝に直接ステロイドを注射する医者もいたりして、散々な目に遭った。
ところが、山仲間の当時、守山区にあった石川外科の院長だけが、一目で「こりゃ痛風だ」と指摘し、ようやく治療にこぎ着けることができた。
大半の医師が、教育された固定観念で、「痛風は足の親指から始まる」と思い込んでいて、膝から始まる痛風を理解できなかったのだ。
アロプリノールを頂いて、毎日服用するようになって痛風発作は起きなくなった。
後に、交通事故で入院した瑞浪厚生病院の整形外科医師も、すでに確定して、足の親指骨変形が見えているにもかかわらず、どうしても痛風を理解できず、薬の支給も拒否された。
結局、たくさんの経験則を持たない、頭でっかちの知識偏重医師は、教科書と勝手な自分の思い込みだけで患者の苦痛と、まともに向き合おうとしないことを思い知らされた。患者の訴えに対し、自分の思い込みだけで耳を傾けようとしないのだ。
このときは、尿路結石を引き起こして苦痛を訴えたら、鎖骨骨折の手術まで拒否されて強制退院させられた。結果、私の鎖骨は、今でも偽関節になり、激痛に苦しめられている。
このときの経験は、医療と医師の人間性に対する極度の不信を私に植え付けた。
他にも、医療に対する不信は無数にあるのだが、全部も書けないので、大雑把に振り返れば、医療に対する不信感は、医療システム全体に対してのものであり、医師個人が主観的感性でどうにかなるものではない。
いってみれば、西洋医学の方法論そのものに本質的な間違いがあると思うしかなかった。
それは、定型的な論理学的=形而上学の問題ではあるが、我々が生身の人間として日常生活を送るうえで、どんなに欠陥があろうとも、医療を拒否ばかりはしていられない。
現実に、私は2011年2月に、運転中、ブラックアイスバーンの上でスピンして左肩を複雑骨折して、救急車で病院に連れて行かれた。
結局、この病院では、尿路結石の苦痛を訴えたら磯部という医者に「文句が多い」といわれて強制退院させられ、手術をしなかったので、ひどい偽関節になってしまった。
それでも、本人が嫌でも、路上で卒倒すれば強制的に病院送りされるので、医療と向き合わねばならない。
そこで、イヤイヤながらも付き合う医療では、医療体制の本質的な問題点を指摘するより、「この医者は信用できるのか」という視点で、医者個人の人間性と、その哲学を信用して身を任せるしかないのだ。
医師の知識など、全体にろくなものじゃない。大学の医学部で勉強してきたと自負していても、冒頭に書いたように、腎臓病だって、これほど長い、膨大な経験を重ねても、未だに真実には完全に手が届いていない。
今では、透析患者だって「歩くことで」回復に成功した例まであって、それなら、これまで何百万人の人々が、透析によって腎機能を失い死んでいったことに対して、どうやって責任をとるのかと言いたい。
しかし、所詮、学問なんて中途半端なものであり、医学は失敗の経験の上に築かれるのだから、必ずしも間違いや失敗が悪いばかりではない。
こんなとき、我々が、医療に納得するとすれば、それは医者個人の人間性と哲学に対する信頼感だろう。
学問は信用できないが、医者個人の「患者を病気の苦しみから救ってあげたい」という明確な意思と、人生や自然に対する哲学を信頼し、連帯して一緒に病気に立ち向かうという発想でゆくしかない。
こんなとき、山仲間だった石川医師は本当に信用できた。それは、自然が大好きであり、自然とともに歩むという哲学が明確に見えたからだ。
しかし、その石川医師も311後の放射能汚染に対しては、自分の長年の放射線医療経験から、「被曝はたいしたことない」という発想を私に示すことで、大きな齟齬ができて、縁が失われてしまった。
放射能汚染は、エックス線やガンマ線の外部被曝とは本質的に異なるものであり、外部被曝の経験しか持たない医師には内部被曝が理解できない。
その影響は、数十年も人々を苦しめ、あるいは200年にわたって遺伝子障害をもたらす。
このことを理解できている医師が極めて少ないのは、本当に残念だった。
それでも、人間を愛している医師は、例え間違った認識、知識があったとしても、一緒に生きてゆくしかなく、その誤りを共有するしかないのかもしれない。
私は、ずいぶんたくさんの病気になって、全身がボロボロなのだが、こんな状態でも、生き続けていける理由として、若い頃からの山歩きの習慣をあげたい。
十数年前、5月に島根県の三瓶山を訪れ、下山後、周辺の散策路を歩いた。
美しい萌えるような若葉に覆われた散策路は、体から登山の疲れを抜いてくれて、もの凄く元気を回復させてくれた。
このとき、「萌える若葉の森の気」という概念を強烈に理解することができた。
歩いているのに、ウソのように疲れが抜けて元気になったのだ。それからというもの、自分の病気は「森を歩いて治す」という発想が、私の生涯のテーゼとなった。
それからというもの、二年にわたる血尿も、肝臓障害も、そして間質性肺炎も、毎日、苦しみながらも森を歩くことで治せるという確信を抱いて実行している。
よほどの豪雨を除けば、小雨程度も含めて、毎日1時間半程度ではあるが、累積標高差200mの道を年間350日程度は歩いている。
印象としては、やはり萌える若葉のなかを歩くのが一番大きな効果があるように思える。
医学が正しければ、本来ならば私は去年、死んでいたはずだ。しかし、苦痛ながら歩き続けることで、急性増悪でトイレにも行けないほど悪化していても歩けるようになった。
もし、医療にかかっていたなら、肺穿刺を受けて、ニンテダニブを服用し、今頃は悪化して死んでいたように思える。
今ほど、若い頃からの登山経験に感謝するときはない。
(以下引用)
2019年12月03日 (火) 18:24
カテゴリ : 未分類
私は、幼い頃から尿に蛋白が出ていた。
今から半世紀以上も前のことではあるが、当時の基準で3プラスはいつでも出ていた。今でも、試験紙に尿を垂らすと3~4プラスになって濃い緑に染まる。
当時の医者は、私について、成人すると腎不全を起こして長生きできないと言っていた。だから、激しい運動はするなと固く指示されていた。
今でも尿蛋白試験紙には、3プラスでは数年以内に透析に進行する可能性があると書かれている。
だが、私は医者の指示を守らなかった。子供の頃は、自転車に乗って、どこまでも遠く駆けていった。
成人しても、時間のある限り山に出かけて歩き続けたのだ。
結局、医者の予言は、大きく外れて、還暦を大きく超えても、ボロボロながら一応生きている。
ときどき、魚や肉を大量に食べると、急性腎不全を起こして尿量が極めて少なくなり、足が膨れてきて眠れなくなり、慌てて五苓散を服用して、尿量の回復に一喜一憂することがある程度だ。
しかし、最近の医療では、蛋白尿について以前のような深刻な見解は持たず、腎臓の繊維化などの病変が見られても、運動療法で治せると考える医師が増えた。
腎不全に対する意識が、医学会全体で大きく変わり、これまでの蛋白尿=運動制限という発想は、今では完全に否定されるようになった。
http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/shippei/ckd/exercise.html
2012年頃から、浄化槽や池に湧いたユスリカの死骸によって間質性肺炎を患った。一時は、数メートルの歩行でさえ激しく息切れがして、寝ていても息苦しく、横になると、辛うじてウトウトできた。
相当にひどいベルクロラ音があって、息切れが収まる気配はなかった。
ネットで調べると、完全に間質性肺炎の条件を満たしていて、余命は、最長で6年と書かれていた。
しかし、その6年は、とおに過ぎたが、まだ死んでない。
確かに、病状は悪化したかのように見えるときもあるが、毎日、必死になって蒸気機関車のように呼吸しながら歩いているうちに、不思議に呼吸能力が回復してくるのだ。
私が病院に行かなかったのは、検査治療のなかに、肺穿刺検査と書かれていたからで、これは太い針を背中から肺に突き刺して、細胞を採取して診断を確定するものだが、治療には何の貢献もしない。
ただ、担当医が論文を書いて評価されるためのデータとして役立つだけなのだが、患者に対する負荷は、背中からナイフを突き刺されたと同じくらい激烈なもので、これが原因で、肺炎を悪化させたり、傷害が原因で死んでしまったりの例が少なくない。
どうせ確実に死ぬならば、なんで医者の名誉のためだけの苛酷な検査をさせられるのか? 間質性肺炎は、ベルクロラ音や呼吸不全、MRIだけでも十分に確定できるはずで、逆効果にしかならない細胞診をやりたがる医者が、どうしても信用できなかった。
実は、細胞穿刺という検査は、日本では、肝臓・腎臓・肺などに広く行われているが、そのすべてで、治療目的ではなく、診断確定目的であり、患者の病変回復に逆効果しかない。西洋医学の穿刺は藤枝梅安のようなものらしい。
日本では「病変を確定しなければ正しい治療ができない」などと屁理屈をこいて、患者をモルモットにしたがる医者が多いが、アメリカでは、検査のためだけの穿刺細胞診はほとんど行われない。他にいくらでも診断方法があるからで、無理にやった場合、患者から巨額の賠償請求訴訟を起こされるのが普通である。
こんなふざけた検査を医療のつもりでカネをふんだくってまで患者に強要している日本の医療界を、私は、どうしても信用できず。交通事故などの外傷は別として、過去20年、内科疾患は一切、病院に行っていない。
それでも、ちゃんと生きているし、もし医療を受けていたら、とっくに死亡していたと思うしかない。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881040030/episodes/1177354054886012993
なぜ、医療が信用できないかというと、医者の養成行程に極めて大きな欠陥があると昔から考えていたからで、まだインターン制度があった1968年くらいまでの医療は、現場主義で、患者と直接相対して、知識との齟齬を自分の感性で克服できる制度だったから、良い医者が育つことができた。
それ以降の医学カリキュラムは、医者の特権意識=プライドを育てるばかりで、知識偏重(頭でっかち)の医者ばかり育てているように思われる。
それを自分の身で痛感させられたのは、1990年前後に、相当に深刻な痛風発作を起こしたときだ。
私は40歳までに日本百名山を完登するほどの山好きで、いつも下りで駆け下りるクセがあったので、膝関節に大きな負荷が蓄積していた。
このため、腎臓障害=高尿酸症から、いきなり原因不明で膝が腫れ上がり歩けなくなった。最初は、変形膝関節症を疑ったのだが、あちこち病院を回っても誰も診断をできなかった。
なかには膝に直接ステロイドを注射する医者もいたりして、散々な目に遭った。
ところが、山仲間の当時、守山区にあった石川外科の院長だけが、一目で「こりゃ痛風だ」と指摘し、ようやく治療にこぎ着けることができた。
大半の医師が、教育された固定観念で、「痛風は足の親指から始まる」と思い込んでいて、膝から始まる痛風を理解できなかったのだ。
アロプリノールを頂いて、毎日服用するようになって痛風発作は起きなくなった。
後に、交通事故で入院した瑞浪厚生病院の整形外科医師も、すでに確定して、足の親指骨変形が見えているにもかかわらず、どうしても痛風を理解できず、薬の支給も拒否された。
結局、たくさんの経験則を持たない、頭でっかちの知識偏重医師は、教科書と勝手な自分の思い込みだけで患者の苦痛と、まともに向き合おうとしないことを思い知らされた。患者の訴えに対し、自分の思い込みだけで耳を傾けようとしないのだ。
このときは、尿路結石を引き起こして苦痛を訴えたら、鎖骨骨折の手術まで拒否されて強制退院させられた。結果、私の鎖骨は、今でも偽関節になり、激痛に苦しめられている。
このときの経験は、医療と医師の人間性に対する極度の不信を私に植え付けた。
他にも、医療に対する不信は無数にあるのだが、全部も書けないので、大雑把に振り返れば、医療に対する不信感は、医療システム全体に対してのものであり、医師個人が主観的感性でどうにかなるものではない。
いってみれば、西洋医学の方法論そのものに本質的な間違いがあると思うしかなかった。
それは、定型的な論理学的=形而上学の問題ではあるが、我々が生身の人間として日常生活を送るうえで、どんなに欠陥があろうとも、医療を拒否ばかりはしていられない。
現実に、私は2011年2月に、運転中、ブラックアイスバーンの上でスピンして左肩を複雑骨折して、救急車で病院に連れて行かれた。
結局、この病院では、尿路結石の苦痛を訴えたら磯部という医者に「文句が多い」といわれて強制退院させられ、手術をしなかったので、ひどい偽関節になってしまった。
それでも、本人が嫌でも、路上で卒倒すれば強制的に病院送りされるので、医療と向き合わねばならない。
そこで、イヤイヤながらも付き合う医療では、医療体制の本質的な問題点を指摘するより、「この医者は信用できるのか」という視点で、医者個人の人間性と、その哲学を信用して身を任せるしかないのだ。
医師の知識など、全体にろくなものじゃない。大学の医学部で勉強してきたと自負していても、冒頭に書いたように、腎臓病だって、これほど長い、膨大な経験を重ねても、未だに真実には完全に手が届いていない。
今では、透析患者だって「歩くことで」回復に成功した例まであって、それなら、これまで何百万人の人々が、透析によって腎機能を失い死んでいったことに対して、どうやって責任をとるのかと言いたい。
しかし、所詮、学問なんて中途半端なものであり、医学は失敗の経験の上に築かれるのだから、必ずしも間違いや失敗が悪いばかりではない。
こんなとき、我々が、医療に納得するとすれば、それは医者個人の人間性と哲学に対する信頼感だろう。
学問は信用できないが、医者個人の「患者を病気の苦しみから救ってあげたい」という明確な意思と、人生や自然に対する哲学を信頼し、連帯して一緒に病気に立ち向かうという発想でゆくしかない。
こんなとき、山仲間だった石川医師は本当に信用できた。それは、自然が大好きであり、自然とともに歩むという哲学が明確に見えたからだ。
しかし、その石川医師も311後の放射能汚染に対しては、自分の長年の放射線医療経験から、「被曝はたいしたことない」という発想を私に示すことで、大きな齟齬ができて、縁が失われてしまった。
放射能汚染は、エックス線やガンマ線の外部被曝とは本質的に異なるものであり、外部被曝の経験しか持たない医師には内部被曝が理解できない。
その影響は、数十年も人々を苦しめ、あるいは200年にわたって遺伝子障害をもたらす。
このことを理解できている医師が極めて少ないのは、本当に残念だった。
それでも、人間を愛している医師は、例え間違った認識、知識があったとしても、一緒に生きてゆくしかなく、その誤りを共有するしかないのかもしれない。
私は、ずいぶんたくさんの病気になって、全身がボロボロなのだが、こんな状態でも、生き続けていける理由として、若い頃からの山歩きの習慣をあげたい。
十数年前、5月に島根県の三瓶山を訪れ、下山後、周辺の散策路を歩いた。
美しい萌えるような若葉に覆われた散策路は、体から登山の疲れを抜いてくれて、もの凄く元気を回復させてくれた。
このとき、「萌える若葉の森の気」という概念を強烈に理解することができた。
歩いているのに、ウソのように疲れが抜けて元気になったのだ。それからというもの、自分の病気は「森を歩いて治す」という発想が、私の生涯のテーゼとなった。
それからというもの、二年にわたる血尿も、肝臓障害も、そして間質性肺炎も、毎日、苦しみながらも森を歩くことで治せるという確信を抱いて実行している。
よほどの豪雨を除けば、小雨程度も含めて、毎日1時間半程度ではあるが、累積標高差200mの道を年間350日程度は歩いている。
印象としては、やはり萌える若葉のなかを歩くのが一番大きな効果があるように思える。
医学が正しければ、本来ならば私は去年、死んでいたはずだ。しかし、苦痛ながら歩き続けることで、急性増悪でトイレにも行けないほど悪化していても歩けるようになった。
もし、医療にかかっていたなら、肺穿刺を受けて、ニンテダニブを服用し、今頃は悪化して死んでいたように思える。
今ほど、若い頃からの登山経験に感謝するときはない。
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