改憲論者の嘘
◆憲法は「緊急事態」対応を認めている
最近まで、改憲論と言えば9条に関するものがほとんどであった。しかし、東日本大震災とコロナ・パンデミック(大感染)を体験した辺りから、「緊急事態条項」の新設を主張する声が大きくなってきた。
曰く、「大災害に直面したら、人権を停止して、権力を一元化して、国家として迅速に対応することが必要で、それを想定した緊急事態条項が現憲法にはない。」
確かに、大災害に直面した場合には、国家としては迅速に決断して、強制的に国民の移動を制限したり国民の財産を公のために用いたりすること(つまり人権の制限)は必要で有効である。
しかし、現行の憲法にはそれを可能にする規定が既に存在する。12条は「この憲法が国民に保障する権利(つまり人権)は常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」と規定し、13条は「国民の権利は、公共の福祉に反しない限り、国政の上で、最大の尊重を必要とする」と規定している。
ここで言う「公共の福祉」とは、全ての国民がそれぞれに人権を行使して幸福を追求するために不可欠な前提としての安心・安全な社会状況のことである。震災の被害を除去し得た状態やパンデミックを克服し得た状態が「公共の福祉」そのものであることは言わずもがなである。
◆だから緊急事態法制は既にある
だから、わが国には、現に災害対策基本法、感染症対策基本法等の緊急事態法制(法令群)が存在する。その中で、強制入院(行動制限)や私有財産の強制的な公用化(財産の公用収用)が許されるのは、正に憲法12条と13条が存在するからである。
これで、緊急事態条項が必要だという根拠の一つ、人権制約の根拠条文の必要性……が根拠にならないことが明らかになった。
◆政治の愚かな対応こそが問題
緊急事態条項が必要だという主張の根拠のもう一つは、緊急時に迅速な決定を下すために権力を一元化する必要がある……というものである。
しかし、その論者が根拠として挙げる東日本大震災とコロナ・パンデミックに対する政治の対応を振り返ってみれば、その主張が的外れであることが分かる。
東日本大震災の被害は東北を中心に数県に及んだ。しかし、現行の災害対策基本法は「中央集権」型にできているために、現場の自治体には決定権がなく一つ一つ中央に「お伺い」を立てなければならず、それが、実情を知らない中央省庁の決定を待つことにより被害の拡大を招いてしまった。
コロナ・パンデミックに対しては、インバウンド旅行客が落とす金、中国主席の来日、オリンピックの開催を意識した政府が最初の水際対策を怠ったことが状況を悪化させたというのが歴史的事実である。
いずれも、緊急事態条項の不存在ではなく、政府による政策判断の失敗こそが問題であった。
◆自民党の改憲案は「独裁条項」だ
それはそれとして、以上のように既に破綻した理由をあえて立てて自民党が提案(2018年)している緊急事態条項は、次のものである。つまり、緊急事態には、内閣は法律に代わる政令を制定できるつまり人権を制約できるというものである。
さらに、自民党が2012年に党議決定して未だに廃止していない改憲草案では、緊急事態条項は次の様になっている。内閣(つまり首相)は、緊急事態には、既に握っている行政権に加えて、法律に代わる政令を制定する権限つまり立法権を行使し、国会に代わって財政処分権も行使する。加えて、内閣は地方自治体に指示(つまり命令)を行う権限を持つ。それに対して、国民は公の命令に従う義務を負わされる。まるで、かつてのナチス・ヒットラーの全権委任法である。
この様に、自民党は、制度上は不必要で運用上は的外れな「緊急事態条項」を新設する改憲が必要であると広報し続けている。これは明らかに「嘘」で勘違いも甚だしい。
自民党は、明白な嘘で主権者国民を誤導して、800億円もの国費(税金)を費やして憲法を改正しようとしている。これではまるで「改憲を行うこと」それ自体が目的化している様で愚かである。
国会が各院の三分の二以上で改憲を提案してきても、それを承認or拒否するのは主権者国民の英知である。
<初出:月刊日本2月号>
こばやしせつ●法学博士、弁護士。都立新宿高を経て慶應義塾大学法学部卒。ハーバード大法科大学院の客員研究員などを経て慶大教授。現在は名誉教授。著書に『 【決定版】白熱講義! 憲法改正 』(ワニ文庫)など
【月刊日本】
げっかんにっぽん●Twitter ID=@GekkanNippon。「日本の自立と再生を目指す、闘う言論誌」を標榜する保守系オピニオン誌。「左右」という偏狭な枠組みに囚われない硬派な論調とスタンスで知られる。