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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

翁の文(第十節)

釈迦が六仏を祖とし、然灯仏を思い出して、生死を離れよと勧められたのは、それ以前の外道ども(初期仏教の釈迦以外の修行者たち)が、天を祖として、それを基にして修行したら昇って天に生まれると説いた、その上に出たものである。それ以前の外道どもも、皆互いにその上に出ようとしたもので、鬱陀羅が非非想を説いたのは、阿羅羅の無所有所の上に出たものである。その無所有所の説は、またそれより先の識所の上に出たものである。その識所の説は、またそれより先の空所或いは自在天などを説いた、その上に出たものである。このように段々と説き出して、天を三十二まで説き延ばしたのだ。これは外道の場合で、同じ釈迦の仏法にも、文殊の徒が般若の大乗を作って空を説いたのは、迦葉の輩が阿含を作って有を説いた、その上を出たものである。普賢の徒が法華深密などを作り、不空実相を説いて、それを成道四十余年の後の説法にかこつけたのは、また文殊の説の空の上を出たものである。その次に華厳を作った者が、成道二十七日の説法にかこつけて、日輪がまず諸大山王を照らすのにたとえたのは、またこれを成道の始めにかこつけて諸法の上に出たものである。その次に涅槃(涅槃経)を作った者が、涅槃一昼夜の説法にかこつけて、醍醐が牛乳から出るのにたとえたのは、諸法を合わせてその上に出たものである。また金剛薩埵(の経が?)が大日如来にかこつけて、法華を第八、華厳を第九と立て、釈迦の説法を皆顕教と名付けたのは、これは諸法を離れてまたその上を出たものである。また頓部の経が、一切煩悩、本来自ら離る、一念不生、すなわちこれ成仏など言い、また禅宗に四十余年所説の経巻は、みな不浄を拭う破れ紙など言い出したのは、これは諸法を破って、またその上を出たものである。これを知らないで、菩提留志は、釈迦の一音、色々に聞こえたるなりと言う。また天台は、釈迦の方便によって、一代のうちに説法が五度変わったと言い、また賢首は、衆生の根機に従って、その伝える所がそれぞれ異なるなどと心得たのは、すべて大きな取り損ないの間違いである。このいきさつを知ろうと思うなら、出定(注:「出定後語」のこと。)という書を見るのがよい。





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翁の文(第九節)

(例によって、「富永仲基」による注釈:これによって翁も本意を言い表している。まったく三教の道を捨てようというわけではあるまい。ただその真の道を行わそうということである。)
しかしながら、ここに翁の説がある。一般に、昔から道を説き法を始める者は必ずそのかこつけて祖とするものがあって、自分より先に立てた者より上に出ようとするのがその定まった習わしで、後の人は皆これを知らないで迷うことをしている。(訳者注:富永仲基の有名な「加上説」である。)





翁の文(第八節)

そういうわけで、この真の道を捨てて、別に何の道も作り出しにくい証拠には、釈迦も五戒を説き、十善を説き、貪欲、憤怒(注:この漢字の意味はよく分からないので仮にこう訳しておく。)、愚昧の三つを三毒と名付け、父母に孝養し、師や長に仕え奉ることを三福のひとつに連ね、諸々の悪は為すなかれ、諸々の善は行い奉れ、自らその心意を清くすることが諸仏の教えであると説かれている。孔子も孝弟忠恕を説き、忠信篤敬を説き、知仁勇の三つを三徳と名付け、怒りを抑え、欲を塞ぎ、過ちを改め、善に遷るとも説き、君子は常に平静で穏やか、小人はいつも心が憂え痛んでいると説いている。また神道の人も、清浄・質素・正直と説いている。これらはみな真の道に適うもので、至上の言葉で間違っていないものは似ていると言うべきである。であるから三教を学ぶ人も、このように心得て、道理に外れて怪しく異様な行為をせず、人の世に交わってこの世を過ごすならば、それはすなわち真の道を行う人と言うべきである。




翁の文(第七節)

(例によって「富永仲基」による前節の注釈:これらのことはみな儒仏の書に説き古した事などであって、今更格別に言うべきものではないが、今翁が新しく自分が言い出したことのように説いて、人に無用のことを捨てて、真っすぐにその道を指し示したその志は本当に尊ぶべきである。)さて、この真の道というものは、本来インドから来たというわけでもなく、中国から伝えられたのでもなく、また神代の昔に始まって、今の世に習わしとなっているわけでもない。天から下ったものでもなく、地から出たものでもない。ただ今日の人の上において、こうすれば人もこれを喜び、自分自身も快く、終始差し支えることがなく、よく治まって、またこうしなければ人もこれを憎み、自分自身も快くなく、物ごとに差し支えがちで、滞ることが多くなっていくので、こうしなければ適わないという、人の当たり前とするところから出てきた事で、これを人がまたわざわざ特別に思案し考案して仮定的に作り出したことでもない。であるから、今の世に生まれてきて人として生まれたものは、たとえ三教を学ぶ人であっても、この真の道を捨てて一日でも世に立っていくことは難しいことであろう。












翁の文(第六節)

それでは、その真の道の、今の世の日本で行われるべき道はどうかと言うのなら、ただ物事の当たり前のことを務め、今の仕事を本として、心をまっすぐにし、身持ちを正しくし、物の言い方を丁重にし、ふるまいを慎み、親がいる者はよくこれに仕え、(翁の自注に言う、六向拝教を見るべし、もっぱら五倫のことを説いている、また儒者もこれを重んじている、また神令にもこの五種を載せておられる、これは真の道は三教の道にも欠かせないものである印である、と。)主君がある者は、よくこれに心を尽くし、子がある者はよくこれを教え、臣下がある者はよくこれを治め、夫がある者はよくこれに従い、妻がある者はよくこれを率い、兄がある者はよくこれを敬い、弟がある者はよくこれを憐れみ、年寄りに対してはよくこれを大切にし、幼い者に対してはよくこれを慈しみ、先祖のことを忘れず、一家の親しみを疎かにせず、人と交わってはまごころからの誠意を尽くし、悪い遊び(注:遊蕩のことだろう。)をせず、優れたものを尊び、愚かな者をあなどらず、おおよそ我が身に当てはめて(考え)、悪いことを人に為さず、鋭く角々しいことをせず、僻んで頑なにならず、せかせかと余裕の無い態度をせず、怒ってもその際限を誤らず、喜んでもその守りを失わず、楽しんでもそれに淫せず(溺れず)、悲しんでも迷いに至らず、十分なことも不十分なことも、みな自分の幸福だと心を満足させ、受けてはならないことは塵ほどのものも受け取らず、与えるべき場合には国や天下でも惜しまず、衣食の良い悪いも、自分の身の程に従い、贅沢をせず、吝嗇でなく、盗まず、偽らず、色を好んでも理性を失わず、酒を飲んでも乱れず、人に害の無いものを殺さず、食物を慎み、悪いものを食わず、多くは食べず、(翁の自注に言う、云々:この段の論拠が古典や経などにあることを述べているだけなので省略する。)暇な時には自分の身に利益のある芸を学び、賢くなることを務め、(翁の自注に言う、云々:同様に省略)今の文字を書き、今の言葉を使い、今の食物を食い、今の衣服を着、今の調度を用い、今の家に住み、今の風俗習慣に従い、今の掟を守り、今の人と交際し、さまざまな悪いことをせず、さまざまな良いことを行うのを真の道と言い、また今の世の日本で行われるべき道とも言うべきである。