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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「血液サラサラの薬」の正しい名称

「血液サラサラの薬」という俗称の正式名を知っている人が少ないかと思うので、「常識でない常識」として記事を載せておく。
まあ「抗血栓薬」と言うらしい。詳しく言うと「抗血小板薬」と「抗凝固薬」に分かれるようだ。



血液をサラサラにする薬(抗血栓薬)を飲んでいるのですが、内視鏡検査は受けられますか?

背景

内視鏡検査や内視鏡治療は消化管出血を伴う可能性があり、その危険性をできるだけ抑えることが必要です。しかし、一方で心筋梗塞や脳梗塞の血栓塞栓症の治療や予防のために血液をサラサラにする薬(アスピリンなどの抗血小板薬やワルファリンなどの抗凝固薬などをまとめて抗血栓薬といいます)を内服されている方が増加してきており、これらの薬は出血し易いという副作用があります。そのため、以前は内視鏡検査や内視鏡治療を行う前には抗血栓薬を休薬することも多かったのですが、休薬期間中に致死的な血栓塞栓症を発症するケースも少なくないことがわかってきました。また、抗血栓薬と一言でいっても、現在その種類は豊富になっており、薬剤によって内視鏡検査や内視鏡治療を行った際の消化管出血のリスクが違うことがわかってきました。

ガイドラインの改訂と内容

日本消化器内視鏡学会では「抗血栓薬服用者に対する消化器内視鏡診療ガイドライン」を2005年に作成しましたが、2012年に従来よりも血栓塞栓症を重視したものに改訂し、出血と血栓塞栓症という相反する二つの危険性の間で休薬による血栓塞栓症の危険性を最小限に抑えることを目標にしたガイドラインとなっています。

 

このガイドラインでは、出血の危険を伴う内視鏡検査や処置を行う場合について、行う内視鏡処置の出血しやすさ(出血危険度)と内服している抗血栓薬の数や種類によって休薬のルールを細かく設定しています。具体的には、抗血栓薬が単剤であれば生検などの出血低危険度の内視鏡処置を施行する場合には内服の中止はは必要ありませんが、抗凝固薬であるワルファリンの場合は薬の効き具合をあらかじめ血液検査(PT-INR)で確認する必要があり、PT-INR値が高い場合には、出血危険度が高いため生検は施行しません。また、新しい薬である直接経口抗凝固薬(DOAC)および抗凝固薬の新たな知見を加えて2017年にガイドライン追補を作成しています。

 

抗血栓薬を内服している方でも、内視鏡検査を受けるだけ(観察だけ)の場合には基本的に休薬は必要ありません。しかし、検査中に病変を発見した場合、生検や内視鏡治療を行う場合もありますので、実際には、個人の状況に応じて内視鏡医と抗血栓薬を処方している処方医が連携をとりながら休薬の要否について決定しますので、検査を受ける前に、主治医とよく相談し、確認しておくことが重要です。

 

虎の門病院 消化器内科 布袋屋修

 

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ブイヨンとコンソメの違い

この前、野菜スープを作るのにブイヨンを使ったら、ひどく不味かったので、コンソメとどう違うのか、調べてみた。これまではコンソメを使ったことしかなく、失敗したことがないからだ。
要は、ブイヨンには雑味があり、コンソメは精選された味だと言うことで、ブイヨンをスープに使うには、向かない場合があるということのようだ。

ブイヨンとは?

「ブイヨン(bouillon)」とは、フランス語で「だし」のことを指します。和食にかつお昆布だしがあるように、フランス料理にも牛や鶏、野菜で作っただしがあり、さまざまな料理を作るうえで欠かせません。

ブイヨンの材料は牛骨や鶏ガラ、香味野菜、スパイス、ハーブなどです。これらを大きめに切って鍋に入れ、水を加えて弱火で3〜4時間じっくりと煮込み旨味を抽出します。深い旨味がありながらもクセの少ない味わいなので、コンソメやポトフ、ポタージュなどさまざまな料理のベースとして使われます。

コンソメとの違いは?

「コンソメ(consommé)」はフランス語で「完成された」という意味で、そのまま飲んでもおいしいスープとして親しまれています。こちらはブイヨンをベースに大量の牛赤身肉や香味野菜、卵白などを加えて2時間程煮込み、旨味をしっかりと抽出したものを漉して透き通ったスープに仕上げます。

旨味がギュッと凝縮された濃厚な風味は、まさに「完成されたスープ」と呼ばれる上品な味わいです。塩で味を調えていただくほか、冷やし固めたものをヴィシソワーズにのせるなど、ほかの料理と組み合わせて使うこともあります。

「専門家」の高慢さと使用文字

字が書ける、読めるというのは、昔は上級国民の特権だったので、一般人が読み書きしやすい字を使うとか難字を制限するという思想はほぼなかったはずだ。漢字の中でも難読性、書きにくい難字が頻出するのも、軍隊や医学界であるのが、その「一般社会から隔絶した専門性」の強調であり、「俗世の奴ら」「下賤の連中」への軽蔑だろう。これは漢字だけに限らず、英語の医学専門用語(ラテン語由来が多いようだ)の難解さにも表れている。

ちなみに、洋の東西を問わず、昔は塩が貴重品で、サラリーの語源はソルト(塩)だとも言われている。つまり、袋の中に入れた塩とは、貴重品を持ち運びする(略奪する)意味だろう。


漢字・漢和辞典-OK辞典⇒⇒⇒「鹵」という漢字
「鹵」という漢字

漢字の意味・成り立ち・読み方・画数等を調べてみました。
(「鹵」は常用漢字外です。「鹵」は部首です。)
成り立ち読み方画数・部首解説
意味

①「しおつち(塩分をんだ土地)」(例:鹵田)

②「塩(しお)。岩塩。天然の

岩塩とは、無色または白色の塩化ナトリウムからなる鉱物
 のいます。食塩の製造原料となります。

鉱物とは、地球の表面を形作る岩石のに存在する無生物で成分が
  一定の固定物質のいます。

③「やせ地(作物などのたない土地)」、「荒れ地

④「疎(おろそ)か」、「軽々しい

⑤「愚か

⑥「奪う」、「掠(かす)める」(例:鹵獲)

⑦「防ぐの道具」(例:鹵簿)

成り立ち

象形文字です。「んだ岩塩」の象形から、「しお」、「しおをんだ

西方の荒れ地
」を意味する「鹵」という漢字が成り立ちました。

媒質の存在しない「波」www

まあ、下の引用記事は「科学の嘘」だろう。波というのは媒質があって存在するのであり、媒質のない真空(本物の真空)の中で波が伝わるはずがない。光も波であるとするなら、下の解説は嘘になる。つまり、「エーテル」という、まだ人類が発見していない媒質が宇宙全体に広がっている、と見るのが正解のはずだ。これが、波と媒質の定義から来る必然的結論である。でなければ、「電磁波」や「光波」は波ではない、と定義を変えるべきである。

さらに妄想を言えば、私は、波というのは力を伝達するのではなく、力が伝達された後に起こる現象だと思っている。つまり、作用と反作用の連続だという考えだ。ただ、その「力」の種類によって、いろいろな波が起こるのだと思う。中には、「無時間」で宇宙の端から端まで到達する波もある可能性もある、と空想している。言い換えれば、A点からB点まで到達するのが波ではなく、A点とB点を「つなぐ物」が波で、そのAとBが、さらにC、D、E……と、どんどん連続して長大な波になる、という考えである。
たとえば、棒の両端で押し合う場合、A点で押した力がB点に到達するのに時間はかからない。「即時」という伝達形式もあるということだ。つまり、何かの運動には必ず時間がかかるというのは錯覚にすぎない、ということである。これが、ニュートン、アインシュタインを超える、第三の物理学革命思想である。なーんちゃって。

たとえば、絶対に曲がらない長大な棒があったとして、その両端が月と地球にあって、その一方を月で押した場合、地球でそのもう一方を持っている人間が、月でのその動きを感じるのに時間はかかるか? どのくらいの時間が? 材質の問題を度外視しての話である。ここに、「力波」とでもいうものがあって、それが棒を伝わって地球に到達するのに、時間がかかるとでもいうのだろうか。いや、「即時」で伝わるはずだ。


(以下引用)

電磁波の媒質は何ですか?
電磁波 真空中における電磁波や光波の媒質は、現在では空間そのものと考えられている。 古くはエーテルという架空の媒質が想定されていたが、アインシュタインの特殊相対性理論によって、想定の必要性は否定された(「存在しない事が完全に証明された」のではなく「存在していようがしていまいがどちらでも構わない事が判明した」の意)。

茗荷と「物忘れ」の由来





 さて、茗荷といえば、たくさん食べると物忘れをする、と昔から言われてきた。この俗説の由来は、ある非常に物覚えの悪いお坊さんが亡くなり、その墓から茗荷が生えてきたためだと言われるが、本当のところは、少々趣の違う話である。  

 茗荷の名前の元になったお坊さんは、周利槃特(しゅりはんどく)と言う。周利槃特は、天竺(インド)の北部に生を受け、兄の摩河槃特(まかはんどく)と共にお釈迦様に弟子入りした。兄は賢く、お釈迦様の教えをよく理解し、深く仏教に帰依したが、弟の周利槃特は物覚えが悪く、自分の名前すら覚えられなかった。そのため、托鉢に出かけても、お釈迦様の弟子として認められず、乞食坊主扱いをされ、お布施を貰う事が出来ない。お釈迦様はこれを憐れみ、「周利槃特」と書いたのぼりをこしらえて「明日からこれを背負って托鉢に行きなさい。もし名前をたずねられたら、これでございますと、のぼりを指差しなさい。」と言われた。次の日から托鉢の時にのぼりを背負っていくと、人々はお釈迦様の書かれたのぼりをありがたがり、たいそうなお布施をいただく事ができるようになったそうである。  

 さて、兄は、物覚えの悪い弟に、何とかお釈迦様の教えを覚えさせようと手を尽くしてやるが、弟の方は、朝に覚えていたものを昼には忘れてしまう。周利槃特は、自分のおろかさに涙を流して途方にくれた。それを見ていたお釈迦様は「自分が愚かであると気づいている人は、知恵のある人です。自分の愚かさを気づかないのが、本当の愚か者です。」と言われ、ほうきを周利槃特に渡して「ごみを払おう、あかを除こう」と唱えて掃除をしなさいと教えた。
 その日から周利槃特は、雨の日も、風の日も、暑い日も、寒い日も、毎日「ごみを払おう、ちりを除こう」と唱えながら掃除をし続けた。やがて「おろか者の周利槃特」と呼ぶ人はいなくなり、「ほうきの周利槃特」と呼ばれるようになった。そして何十年経ち、周利槃特は自分の心のごみやあかを全て除き、阿羅漢と呼ばれる聖者の位にまでなったのである。お釈迦様は、「悟りを開くということは決してたくさんのことを覚えることではない。わずかなことでも徹底すればよいのである。周利槃特は徹底して掃除をすることでついに悟りを開いたではないか。」と大衆の前でおっしゃった。  その後、周梨槃特が亡くなり、彼のお墓にあまり見たこともない草が生えてきた。彼が自分の名を背に荷(にな)ってずっと努力しつづけたことから、この草は「茗荷(みょうが)」と名づけられたということである。