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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

映画でデート?

私の別ブログに載せた記事だが、もしもこのブログを読んでいる若い人がいるなら、年寄りから若者へのアドバイスとして、ここにも載せておく。
非常に有益なアドバイスだと私自身は思っている。
ちなみに、私が失敗した2度のデートで見た映画は、最初の女の子と見た映画がロシア(当時はソ連)制作の「カラマーゾフの兄弟」で、原作の足元どころか足の裏にも及ばないとんでもない駄作だった。結果的に、その後に行った喫茶店では、何ひとつ話題が無かった。二度目が「禁じられた遊び」と「愛情物語」の併映で、映画を見た後に行った喫茶店で私が「禁じられた遊び」の素晴らしさに呆然としていると、女の子が「『愛情物語』が面白かった」と言ったので、がっかりしてしまった。いや、「愛情物語」はピアニストを主人公とした普通のラブロマンスだが、それと「禁じられた遊び」は作品の格が天国と地獄くらい違うだろう。
まあ、そういうものだ。そのどちらの場合も、その一回のデートで実質的に終わりだった。

(以下自己引用)記事内の「よう実」は「ようこそ実力主義の教室へ」というアニメ。下の記事で赤字にした「知性の差」は間違いで、正しくは「興味や関心のジャンルの違い」と言うべきだろう。ちなみに、私は一般論として男と女のどちらが知性が上とはまったく思っていない。どちらかと言えば、男のほうが非現実的で夢想的、いわば馬鹿だろう。そこが男の美点でもある。

実は、前回の記事は、最初はあんな内容にするつもりはなかった。先ほど見た「よう実」の或る回の中で、ある女の子が主人公と初デートを企図して、その相談をクラスメートにするのだが、そのプランの一部が「映画を見る」なのである。これは、大きな危険性を持つプランなので、私から青少年諸君へのアドバイスとして、「初デートで映画を見るのはやめろ」と言っておくwww
あるいは、これは前にも書いたかもしれないが、そうだとしてももう一度書く。

映画を見るということは、その後で映画の感想を話し合うことを意味する。
これが単なる日常的な雑談なら問題はないが、そこには「映画」という「第三の知性」が存在しているのである。優れた作品の場合、それを評価できないと劣悪な知性であることが暴露され、低劣な作品を褒めても同様だ。つまり、そこで男女両者の知性の差が露骨に判明し、それで終わりとなる可能性が高い。そういう試金石である覚悟をしてならいいが、安易に映画をデートに使うのは破滅のもとだと言っておく。
これは、初デートで映画を見ることで大失敗をした経験が二度もある経験者からの忠告である。

まあ、一番いいのは、公園などをぶらぶら歩くことである。そうすれば、周りに見える犬や猫や小鳥や子供や家族や花や雲など、些細な物事や出来事が話のタネになるから、話も続き、緊張も少ない。一緒に歩くだけで楽しいなら、それは相性がいい可能性が高い。うまく行けば、初デートで手をつなぐくらいできるかもしれない。そうすれば、肉体的接触をしたという点ではキスしたも同然であるwww ベンチに並んでアイスクリームを食うのもいい。これはレストランで食事をすることに等しく、一緒に食事をするのは、一緒の家庭(あるいは同棲関係)を持つことに近づいたわけである。案外、公園でのデートというのは男女ともに戦略的価値が高いわけだ。
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自己心理学と「トラウマ」問題

「シロクマの屑籠」記事の一部で、メモ、あるいは思考材料としての保存であるが、内容に感心したわけではない。そもそも、内容があまりに漠然としていて、コフートという人の思想がどういうものか、これだけでは分からない。
ただ、「自己心理学」と言うと事々しいが、自分自身の心理の分析というのは、私の習慣のようなものなので、関心を持っただけだ。
で、ナルシシズム(動物の「自己保存本能」と本質は同じ)が、人間の心理の核だというのは、当たり前の論だと思うが、あまり世間の人は気にしていないようだ。常に、彼らの目は外部に、特に「外部の敵」に向けられる。だから行動が支離滅裂で的外れになる。(内部の敵はひとつだが、外部の敵は複数で、錯綜した利害関係や異なる動機を持っているからだ。そもそも、相手が敵かどうかも確かではないのだから、その正しい対応は、「何もせず敵の自滅を待つ」だろう。もちろん、ビジネスの場ではそうはいかないが、ビジネスでは基本的に敵味方の区別は明白だ。そこに非人道的で悪質な合理主義の発生源もある。「あいつは敵だ。敵は殺せ」である。)

私は、「GS美神」の横島の「己れほど信じられないものがあるかー!」というのを、心理学の絶対的基礎だと思っている人間だが、その信じられない自分をいかに探求するかを趣味としている。
で、コフートとやらが何を言っているのか知らないが、この「自分自身を人は知らない」というのはフロイトが精神分析学の基礎とし、ソクラテスがその哲学の土台としたものだ。そして、そこに「無意識」という領域を精神分析学の「補助線」として置いたのは、フロイトの偉大な業績だろう。
ただし、「夢」というものに過大な意味を置いているのが、欠点ではないか、と思う。夢は昼の精神活動の残滓である、というのもフロイトが見出した偉大な発見だと思うが、それが何かの大きな精神的外傷(トラウマ)を示しているかどうかは、議論の余地があると思う。
精神的外傷は、無意識の中にではなく、繰り返し意識に上る想念の中にこそあるのではないか。私で言えば、小学校や中学校での運動(スポーツ)の場での屈辱である。これが、私を決定的に気弱な、劣等感の強い人間にしている。
スポーツとは基本的に「戦い」だから、私の「戦争憎悪」の遠因も、案外そこにあるのかもしれない。

注:「あいつは敵だ。敵は殺せ」は、埴谷雄高が、政治(あるいは政治的闘争)の根本原則として(たぶん、批判的に)言ったものである。これが、すべての戦争の(隠された)モットーであるのは言うまでもない。(「戦闘」においては、このモットーは隠されたどころか、ほとんど唯一の生存条件になる)

(以下引用)

特に重要なのがH.コフート『自己の修復』ですね。より正確には『自己の分析』『自己の治癒』も含むコフートの自己心理学三部作です。二次元でも三次元でも、遠くのインフルエンサーでも近くの先輩や後輩でも、向社会的な心理的欲求とその充足*1について、私はコフート三部作に基づいて考えています。これを下部構造として、ポスト構造主義的ないろいろが乗っかってあれこれを考えているわけです*2
 
フロイトやその弟子筋の自我心理学の述べてきた事々と比較して、コフートが創始した自己心理学・およびそのナルシシズム論は、核家族化が進行し一人世帯が増えた社会によくフィットしていると私は考えています。自己心理学は、統合失調症や双極症など明確な精神疾患を紐解くものではありません。コフートは自己愛パーソナリティ(障害)からスタートして、やがて、20世紀後半以降のありふれた個人のありふれた心理的欲求とその充足を取り扱えるナルシシズム論へと転向しました。大筋として彼は、ナルシシズムの否定でなく、ナルシシズムのメカニズムとナルシシズムの成長可能性について記しています。
   
リースマン『孤独な群衆』でいえば、フロイト時代に相当する「内部志向型人間」の次である「他人志向型人間」の心理的欲求とその充足にしっくり来るのがコフート(とその自己心理学)、といえばイメージが伝わるでしょうか。
 
そしてコフートの理論立ては、心理的欲求とその充足に際して、友達や師匠や恋人といった他者が実際にどうであるかよりも、その人自身にとってどのように体験されているのかを重視しています。ナルシシズムをみたしてくれる対象を「自己対象」と呼び、ナルシシズムがみたされた体験を「自己対象体験」とわざわざ呼ぶのもその反映です。自己対象の論立ては人間だけでなく、「萌え」や「推し」の対象であるキャラクターにも適用できます*3。私が「萌え」や「推し」について語っている時は、必ずといって良いほど背景にはコフートの論立てがあり、その人自身にとってキャラクターがどのように体験されているか、ひいてはどのような心理的欲求のニーズに基づいて、どのように欲求充足が行われているのか(または欲求充足がうまくいかなかったのか)を念頭に置いてしゃべっています。
 
ただし私は、そのコフートと自己心理学も絶対的なものでなく、相対的なものだとみなしています。たとえば、さきほど挙げた『孤独な群衆』でいう「内部志向型人間」の時代にはコフート三部作はあまり有効ではなく、フロイトのほうがしっくり来るのではないでしょうか。狩猟採集社会にもコフート三部作は不向きでしょう。
 
私は精神分析諸派がわりと好きですが、ひとつの精神分析モデルを絶対視するより、時代や社会によって相対化され得るモデルとみるのが好きです。そうしたわけで、私がコフートに基づいて「萌え」や「推し」について考える際にも「でも、これって核家族化や一人世帯化の進んだ社会の話ですよね?」というリミテーションをいつもくっつけています。そういうリミテーションの話も本当はもっとしたいですが、まだできていません。その話は21世紀後半の社会状況に見合った精神分析モデルがどんなものなのか、考えることにも通じているでしょう。

日本人には英語の発音は基本的に無理

副島隆彦の「学問道場」への投稿記事の一部で、中村一秋という人の「英語喉」という考えである。まあ、発想が面白いし、正解である可能性も高い気がする。たとえば、アフリカ人の発声は他民族の発声とは違うことが、彼らの名前や名詞の最初が「ン」で始まることが多いことからも想像できる。日本人では、「ン」から始まる言葉を想像することもできないだろう。だから尻取り遊びでは、語尾が「ん」で終わったら負けになるわけだ。無理に言うなら「ンコ(うんこ)」しかない、と小学生的なことを書いてしまったwww
だが、問題は、英語民族の咽喉(喉?)による発声を、日本人がどうすればできるのか、ということだ。まさか、咽喉の中を見せて「こうしろ」と教えることもできないだろう。

ついでに言えば、英語国民は子音をそれだけで発音できるが、日本人にはそれもほとんど不可能だと思う。逆に、英語国民は母音にはいい加減であるようだ。日本人は母音を明確に発音するから英語らしく聞こえなくなる。時には、存在しない母音や語尾を付け加えて発音したりする。たとえば、「at all」を「アッ・オー」と発音する類だ。これは「アッ・オー」と聞こえるのである。(「青春の光と影」の最後の言葉がそれだったので私には印象深い。)
米国で使われる貨幣のひとつ(5セントか10セントか忘れた)の俗語であるnickel(ニッケル)は、日本人には「ネコ」と聞こえるらしい。最後のelが咽喉の奥に消えるわけだ。ためしに、「ネコ」と発音してみたら、それが米国人的な「nickel」に自分でも聞こえるだろう。niの iが「イ」か「エ」かはほとんどどうでもいいわけである。


(以下引用)

最後に英語喉の学習法の概要について説明する
(著書「英語喉」のサイトから一部引用)

(一部引用開始)
ネイティブメソッドについて
 書籍「英語喉(のど)50のメソッド」で紹介する方法をネイティブメソッドと言います。
ネイティブメソッドは、英語ネイティブが発音の際にしていることと同じことです。英語ネイティブのまねをする方法というよりは、ずばり英語ネイティブがしゃべる時に実践している方法そのものなのです。

200年めの発見
 日本人は外国のものをうまく取り入れ、工夫することで、科学技術を発展させ、ついに世界の経済大国となりました。ところが、外国語に関しては、まじめな国民性をもってしても、歯が立ちませんでした。日本人は、英語発音と聞き取りにおいて苦労します。これは日本人の能力のせいではなく、長い間ある勘違いをしていたことが原因です。ずばり、英語は口というよりも喉で発音するものなのです。日本語で言うと首にあたる部分の喉です。ネイティブの声が、日本語よりも深く、立体的に響くのには、わけがあったのです。
 なぜ喉で発音するとネイティブと同じ発音ができるのでしょうか。理由は単純です。それがネイティブが英語を発音する時にやっていることだからです。さらに、もう1つ理由があります。喉を使うと、どんな音でもうまくまねることができるのです。言語だけでなく、犬の鳴き声や自動車のエンジン音など、喉を使えば、どんな音でもうまくまねすることができます。

ネイティブメソッドと従来の方法はどう違う?
 喉発音を最重要視するネイティブメソッドに、ネイティブ自身を含む多くの人が疑問を持つかもしれません。音によっては唇を少し丸めたり、口を大きく開けることもあるだろうと。しかし、おおげさな口の動きは、人に対して、はっきりと発音を示したいという熱意が、顔に表れているのです。英語学習者に対してだけではなく、また日本語でも英語でも、人が相手にメッセージを強く伝えたい時には、その心が表情として表れます。実際の会話では、ネイティブはほとんど喉でしゃべっています。ネイティブメソッドは、ネイティブどうしが、観察されているとは知らず自然にしゃべっている英語を観察することで誕生した真のメソッドです。逆に、従来のメソッドが参考にしたのは、「観察されているぞ」と意識過剰になっているネイティブのおおげさな英語でした。そのために、観察者の脳が視覚情報に頼ってしまい、「表情」と「音声」の境を勘違いしてしまったのです。

「うつ(鬱)」と「抑うつ」

まあ、学術用語(主に西洋学術用語の日本語訳。英文法用語もそのひとつ)には馬鹿な言葉がたくさんあるが、「抑うつ」もそのひとつだろう。誰が考えても、これは「うつを抑える」こととしか思えない。要するに「うつ」だけだと重々しさが足りないので、「抑うつ」と言葉を長くしただけである。そもそも、「抑」だけでは、何を抑えるのか分からないし、その下に「うつ」が来るなら、「鬱状態」を抑える意味になるのである。


(以下引用)

「抑うつ」という言葉の「抑」は気持ちが抑えつけられた状態を意味する。 うつが抑えられている、という反対の意味ではないので注意。 英語の「depression(de=下に、press=押す)=抑えつける」に由来する。

無駄になった「準備行為」の貴重さ

勝海舟もよく散歩をしたらしく、しかも磁石を手にしての散歩だったという。つまり、町の地形や状況、状態の把握が散歩の目的のひとつだったわけで、その心底(しんてい)には、外国との戦争、あるいは維新派と佐幕派の戦争が想定されていただろう。江戸城引き渡し会談の際にも、前もって江戸が戦場になることを想定し、身近な火消しの親分にその対策を伝えていたという。
「無駄になった(災害への)準備」ほど素晴らしい行為はない。馬鹿は、その無駄さを批判する。その結果のひとつが、能登大震災だ。

(以下引用)

2024-01-19 11:54:24
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最近、散歩をよくします。

 

歩いて「避難」することになるときのための体力作りを兼ねて…

 

そして、あちこち歩いて「土地勘」を身につける…

 

給水施設とか、消防とか、コンビニとか…どこに何があるかを覚えていく。

 

あるいは、火元になりそうなところとか、事前におさえておく。

 

 

歩けば、いま履いている靴が、足に合っているかとかもわかってくる。

 

いざとなったら…

 

トイレはどうしよう?

 

水は?食料は?

 

缶詰はなにがいい?

 

カセットコンロとかあるといい?

 

軍手やポリ手袋、ゴミ袋、断熱シート、毛布…

 

全部は、持ち運べない…ならば、最低限、どれにする?

 

 

母は、いろいろ菓子がもらえて単純に喜んでいるが…

 

食料備蓄の一環での試みとは、わかってはいない…

 

 

「避難」を考える人もいますが、

 

日本に安全な場所なんてないです。

 

 

それよりも…その土地をよく知り、そこでの「つながり」を強化すべきでは?