「オタク差別を批判することをやめにします」という、hatenaノート記事の一部である。非常に長い記事なので、前半は省略。
なかなか貴重な思想が語られているように思え、私の「差別」論の手がかりのひとつになるかもしれないので転載する。まあ、「オタク文化」の話だけに、何の話か分からないところも多々ある。ひとつ言えるのは、オタクは案外とネトウヨと親和性がある、という印象である。そして、「差別に反対する」のではなく、「自分を守ることに必死になる」ことがその最大の特徴だろう。
(以下引用)
これが本当に、ここ数年で疑念として大きくなった末に、今回愛想がつきた一番のポイントなんだけど。
オタクが差別を受ける構造が、あったとする。それは、ネットで語られているほどは大きくないかもしれないけれど。
それで、今、オタクってなんなんですか、と。特にネット上では、強者、抑圧する側、差別を行使する側の「集団」として機能してませんか、と。
腐女子叩きは昔からあったけれど、女叩き、中韓叩き、などは当たり前のように横行している。時々流れてくる、弱者の権利をなんとかして奪ってやろう、人権思想じたいを矮小化してやろう、という意気に満ち満ちたツイッター漫画は誰によって大量RTされているのだろう。俺のところにはだいたいオタクさん経由で回ってくるんだけど。
趣味、という切り口でみても、オタク文化を愛好する人が自分たちと関係のない趣味なら平気でdisる光景というのはそんなにたぐいまれだっただろうか。インスタ蠅なるイラストが回ってきたことがある。そもそもインスタに投稿するのが趣味になっているような女性を叩くようなツイートが回ってきたことがある。鉄オタは「池沼」「ガイジ」であるなんて言い方もある(「」内は原文の表記を尊重)。ゴルフや車などを老害の趣味だとバカにしていたりもする。そうそう、スイーツ(笑)なる言い回しはいったいどこのどういう人によって流行したんだろうか。「リア充爆発しろ」というフレーズに何げなく込められた、自分と関係ない集団への軽視に、どれだけの人が気づいてたんだろか(だって「爆発しろ」だよ。あの連中、有明に15万人集まったタイミングで奴等爆発四散しねえかなーって非オタな人が言ってそれがそっちの界隈で大好評を博したら、インターネットな皆さんの間でどういう反応が起こるか考えてみたらいい)。
そんなオタクばかりじゃないというのは分かる。というか俺がこういう文章を書いてる時点で分かれ。でも、個の話じゃないのだ。集団としての性質の話である。あれだけ、全共闘や学生運動について冷笑ぶって叩く人が追いのに、そこに気づかないってどうかと思う。あとリア充爆発しろは使ってましたすいません。
それに、そういったところで、こんなふうにちゃんと抵抗して、こんなふうに批判して、中から自浄する動きを作りました、このコンテンツからは離れましたと胸を張って言える事例、どれだけあるんですかね?俺が、ノットオールオタクと言い続けたところで、結局「自分を批判の対象から外してくださいあいつらは関係ない」と逃亡する以外に何の役回りも果たせなかったから、言っているのだ。この記事は違うよなあ~こういう作風は好きじゃないなあ~こういう物言いはよくないよなあ~と個別の案件に不満ごちてみせ、自分は違うと思う、もっというなら思ってみただけで、肝心なところからは目をそらしていたんじゃないか? そう思うんである。
逆に、そこに自覚的になったんだろうな、と思える人も何人か知っている。そういう人は、結局C.R.A.C.やツイフェミのようなところに接近し、そのやり方すべてに同意はしないまでも、見解や思想に共感するようになっていく人がほとんどだ。おそらく今回「オタク差別」に怒っている人は、この人たちを敵であり、オタク仲間と認識していないと思う。
つまり、オタク文化の加害者としての側面を見ないふりするか、オタクに勘定してもらえなくなるか、二つに一つということだ。
C.R.A.C.の野間氏は個人的には大嫌いだし、たぶん単にオタクが嫌いなんだとは思う。でも今回ツイートの応酬を見ていて、残念ながら主張にそれなりに同意せざるを得なかったのは、こういう背景について理解できてしまったからだ。そこで突然くっちゃべられる「オタク差別」。真面目に反差別を考えている人にとっては(多分そこは真面目なんだと思う。この人)、筆算の横棒がミニ定規で引かれていないから×、レベルの見当違い感があったんではないか。野間氏の真意など知らないけれど。
そういえばその昔、本田透の「電波男」に感銘を受けながら読み進めていて、後半のほうで腐女子やフェミニストについてはずいぶん切り捨てたような言及の仕方なのに疑問を持ったことがあった。いや、フェミニストがオタクを差別している、という文脈で批判してるなら理解できるんだけど、そうじゃなかったから。権利意識を持つ女性自体が許せなさそうだった。その後「電波大戦」で喪女についての話題が出たとき、対談相手の竹熊氏がわりと真面目に実態について話したりしているのに、「困ったモンですね」で終えているのを見て、クジャクヤママユを盗み出した同級生を見る眼つきになったのを覚えている。だってそこで語られてる喪女、本田氏が救済しようとしてやまない喪男と違わないのに。
そのあとしばらくは新刊も買って真面目に読んでたの、それもどうよって話だけど。
10年くらい前に、俺たちの麻生なるムーブメントがあった。別に政治家を持ち上げること自体は好きにすればいいんだけど、そこでは当人が積み上げた迷言失言差別発言をすべからく許容し、批判したマスコミへの叩きが横行していた。正直、あの政治家のどこがいいのかさっぱり分からなかった。
当時はオタク系個人ニュースが全盛期。そういったサイトの管理人は、麻生氏を擁護するまとめブログエントリを紹介しては、叩かれていて困ったものですねぇ、正論なのに、というようなコメントをこぞってつけていた。オタク気質の知り合いなども、熱心に自ブログで擁護していた。
あれから10年たった今も、麻生氏は差別発言や侮蔑発言を繰り返している。あれを見ていて思うのは、この人は息を吸うようにハラスメントをする人なんだな、ということだ。それは、昔も同じだった。だから、どこがいいのかさっぱり分からなかったのだな、と腑に落ちたのだが、同時に当時持ち上げていた人たちにとっては、「だから良かった」んだろうかしら、とぼんやりと邪推してしまう。
今回オタク差別について怒っているツイッター主の中に、表現規制反対などをめぐっての発言をしばしばしているアカウントがいくつかいる。いずれもその界隈ではそれなりに大物だと思う。そして、俺のチェックしている反対派がぼんくら揃いなのかもしれないけれど、ヘイトスピーチの言論の自由を唱え、ポリコレで何も言えなくなることを憂い、自分に関係ないところでの言論の自由に興味がないかむしろ規制されることを望み、性差別についての提起が出てくるとそれについて考えるより先に提起者の揚げ足を取って袋叩きにするような人たちが勢ぞろいである。さすがに全部きれいに当てはまる人は少数だけれど。そんな反差別運動(別にあの界隈に限らず、そういう発想自体)が大嫌いな人たちが、当然のように主張しだすオタク差別批判、いったいなんなのか。ただ、差別社会の中で特権階級になりたいだけじゃないのか。
そういえば、これはある程度年配のオタクということになるけれど、昔(主に90年代くらい)のバラエティはこんなにおおらかだったのに、今はポリコレがうるさいせいでつまらなくなった、というような声が時々ある。なぜか、そういうつぶやきをしている人が「昔はオタクをバカにする表現に寛容でよかったなあ」と語っている声を聴かない。今回オタク差別が話題になって、バラエティなどでのオタクの扱われ方という話はけっこう出てきているのに、いない。どこへ行ったんだろう。
オタクと差別、という組み合わせでオタク文化っぽいものを思い返してみると、そんな案件ばかりが、思い出されてくるのだ。
反差別のために立ち上がったオタク、というのはそれなりの数知っている。そういう人はオタクかそうじゃないかを越えたところのつながりで、反差別をやっている。でも、オタク差別けしからん以外の「反差別」がオタク文化の中心的な動きとしてあったところを、見たことがない。差別を煽り、偏見を煽り、強者に諂い(自分たち以外の)弱者を嘲笑する、そんな動きならいくつも思い浮かぶのだけど。
あ、一つ思い出した。(反差別とは少し離れるかもだけど)フリーチベット、フリー東トルキスタン。
残念ながら、反中のダシ以上のものであった記憶はないけど。ああいうの、真面目なチベットや東トルキスタンにおける人権運動家に失礼だったんじゃないか。
こんな「オタク差別批判」に大真面目に同意したところで、反差別には一ミリもつながらなさそう、むしろ後退させる役割しか果たせなさそうである。メディアを通した差別はもうかなり減ってるといわれるし、それ以外のものはオタク差別というくくりより別のくくりで論じた方が有意義でより広い被害を論ずることができるようだ。となるとオタク差別なるものに拘る理由はない。
もしかしたら、こんなことは本田透の2冊目の著書におかしさを感じた時点で、たどり着かなければならなかったのかもしれないけれど。
そういう意味でも、失敗した責任を感じる。