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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「飯盒炊爨」の「爨」の字

この字を小学生に書かせるのは無理である。まあ、大人でも無理だが、必死で覚えれば何とかなる。しかし、使う機会は一生に一度も無いだろうwww
それより私は「はんごうすいさん」と覚えていたが「はんこう」だったのか?「合」を含むから「ごう」だろうと思っていたし、私が耳で聞いた時、教師も「はんごうすいさん」と言っていた記憶があるし、今検索した時も「はんごうすいさん」で検索できたのだがどちらが正しいのか。


「爨」の画数・部首・書き順・読み方・意味まとめ

とは、かまど/かしぐ/飯をたくなどの意味をもつ漢字。29画の画数をもち、火部に分類される。日本では大学もしくは一般レベルの漢字とされる。

漢字「爨」
字体
読み音読み サン
セン
訓読み かし()
かまど
部首 火部
画数総画数 29画
部首内画数 火部25画
JIS漢字水準 JIS第2水準
漢字検定 漢検1級

目次 [展開する]

書き方・読み方

書き方

爨_書き方
爨の書き順【筆順】

読み方

』の字には少なくとも、セン・ サン・ かまど・ 爨ぐかしぐの4種の読み方が存在する。

意味

かまど/かしぐ/飯をたく

熟語

飯盒炊爨【はんこうすいさん】

[料]飯盒を使って飯を炊(タ)くこと。

文字コード

「爨」の漢字をコンピュータで取り扱うために策定された各文字規格を紹介する

「爨」の文字コード一覧
Unicode 1 U+7228
JISX0213 1-64-06
戸籍統一文字番号 2 221290
住基ネット統一文字 J+7228

文字ごとに採番された各種コードは、互いに異なる識別番号を持ち、管轄業務を担う省庁/団体/組織によって各用途ごとに管理されている。

検字番号

検字番号とは、各出版社が刊行した漢字辞典/漢和辞典に記載されている検索字を効率よく探すための識別コードである。

「爨」の検字番号一覧
書籍出版社検字番号
角川大字源3 角川書店 5595
新大字典4 講談社 9450
新潮日本語漢字辞典5 新潮社 6793
大漢和辞典6 7 大修館書店 19648
大漢語林8 大修館書店 6613

辞書の巻頭や巻末、別巻などに記載された検字番号を用いることで、漢字の掲載ページ・掲載位置を容易に特定することができる。

まとめ

「爨」の画数・部首・書き順・読み方・意味について、もう一度おさらいする。

「爨」についての総括
  1. 爨の画数 :29画
  2. 爨の部首 : 火
  3. 爨の読み方:セン・サン・かまど・かしぐ
  4. 爨の意味 :かまど/かしぐ/飯をたく
以上で「爨」の字の解説は終わりです。今後とも受験勉強・資格取得・自己学習にモジナビをお役立てください。

ウサタロー

おねがい
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若い女性はなぜBL漫画やBL小説を好むのか

私にとっての長年の謎は、少女漫画はなぜあれほど男性同性愛に関心を持ってきたのか、という問題だ。その答えが、前にも引用した小谷野敦の「聖母のいない国」の中に出ていたので、引用する。これは小谷野自身の言葉ではなく、中島梓(栗本薫)の言葉(要旨)らしい。

「それは思春期を迎えた少女たち、そしてそれがやや成長した若い女たちの、女性性からの逃走である」「ゲイを描き鑑賞している限りにおいて、彼女らは自らのセクシュアリティに直面せずに済む」

これは自分自身でもBL小説を書いて同人誌などを主宰していた栗本薫の言葉だけに、かなりの信頼性があるのではないか。つまり、知的な女の子たちが架空の舞台で「男をおもちゃにして遊ぶ」遊びがBL小説やBL漫画なのではないか。その裏側には、彼女たちが自らのセクシュアリティ(適切な日本語が必要だ)を重荷に思っているという事実があるかと思う。
というのは、彼女たちの人生は「自分のセクシュアリティをどのような形で社会に『売る』か、あるいは『売らない』で生きるか」ということが大きな問題として控えているからである。このセクシュアリティは彼女たちの大きな資産でもあるが、災いを呼び込む可能性を持つ資産でもある。
男の場合には、セクシュアリティは、ホモセクシュアルな人間を除いてほとんど問題にならない。と言うのは、男は何かの刺激で発情しても、それは自慰行為で即座に解消されるからである。一般男性にとって自らのセクシュアリティは自分の人生の資産にもならないし、重荷にもならない。
そういう「重荷を持たない男」を同性愛というセクシュアリティの中に投げ入れて重荷を負わせる遊びがBL文学やBL漫画ではないか。ある意味「男社会への復讐」でもあるだろう。
ということで、長年の疑問がやっと解決したようだ。まあ、その解答が正しいかどうかではなく、一応の解答が得られただけで満足である。



語彙力テスト

これは、スレッドの中身を見る前に、自分の語彙力を試すテストとしてやってみると面白いのではないか。ただし、ワープロソフトだと簡単に答えが出るから、紙に書いてみるといい。
私もまだ頭の中で少し(さ行まで)やっただけだが、「すんこう」「そんこう」は出てこなかった。

女性と恋愛と冒険性

小谷野敦の「聖母のいない国」の中に、女性は「男女関係のどろどろ」を書いた小説が好きだ、という趣旨の言葉があるのだが、これは示唆的である。単に「男女関係を描いた小説」が好きなのではなく、それが「どろどろ」の関係であるのが好きなのである。こういう指摘はこれまであまりなされなかったのではないか。どこで誰が言った言葉か忘れたが「自分(男)にとって少女漫画とはめんどくさい少女たちのめんどくさい関係を描いた漫画だ」という趣旨の言葉があって、至言だな、と思うのだが、一般に女性というのはめんどくさい人間関係の話を好むと言えるのではないか。それが頭の単純な男にとっては謎なのである。で、そのめんどくさい関係とは基本的に男女の恋愛とそれに当然付随する性的関係であり、先に書いた「男女関係のドロドロ」なのである。それを少し表面をきれいに見せたのが少女漫画だったのだが、最近は少女漫画の中でも性行為を露骨に描いているらしい。
問題は「なぜドロドロでなければならないのか」「なぜめんどくさい関係でなければならないのか」である。そうでなければ物語にならないということもあるだろうが、ここには「女性にとっての冒険」というのは恋愛と結婚(現在は結婚はもはや若者にとって魅力のある制度ではないかもしれないが)である、というのが大前提としてあるのではないだろうか。もちろん、現実には女性の冒険家もいるし豪傑もいるだろうが、一般的には女性は恋愛と性関係に冒険性を求めると考えていいのではないか。そこで、「いい人」がなぜ恋人として女性から好まれないのかも分かる。「いい人」は「事件を起こさない」のである。つまり、人生にスリルを作り出さない。
女性が恋愛に求めるのは一種の冒険性である、という仮説をとりあえず提起しておく。
ちなみに、夏目漱石が「文学評論」の中で書いているスゥイフトの「ガリヴァー旅行記」の中に出て来るエピソードだが、ラピュタ島のある高官の妻が地上に逃げて、その優しい夫が連れ戻しに来たが、すべてを許すと夫が言っても帰らない。で、彼女が地上で一緒になっている男は貧しく汚らしい老人で、毎日のように妻を殴ったり蹴ったりするような男なのである。このラピュタの高官は人格者で人間の鑑のような人物なのである。この話の結語として「女には茶人が多い」と言ったか「女にも茶人がいる」と書いてあったか忘れたが、茶人とは普通人には分からない奇妙な嗜好を持つ連中のことである。

なお、女性にとって恋愛が冒険である、というのは少し前までは当たり前の話であり、たいていの女性はどういう男とくっつくかによって自分の一生が決まったのである。だが、基本的に男は「恋愛の食い逃げ」ができたから、男にとって恋愛は冒険的な意味合いは少ない。だから恋愛に冒険性など求めないわけだ。むしろ冒険であっては困るというのが正直なところだろう。

(追記)同じ本の中に小谷野敦は「恋愛というエゴの暴走」という表現をしており、これも秀逸な言葉だと思う。恋愛は一見相手のことを思い詰めているように見えるが、実は「恋をしている自分に陶酔しているだけ」という場合が多いのではないか。これは今敏の「千年女優」で示された思想でもあるように思う。
恋愛においては、相手ではなく、相手をネタにして自分が作り上げた妄想が、「恋愛対象の本質」だというのは、スタンダールが「恋愛論」で明示した思想だ。彼はそれを「結晶作用」という美しい表現をしているが、内実は「エゴの暴走」なのである。

ただし、相手のためには自分のすべてを犠牲にしてもいいという恋愛もあり、それはエゴの暴走的な恋愛とは別物だろう。つまり、恋愛にはふたつある、と見るべきだろう。女性より男性の恋愛のほうに、この種の「エゴを消滅させる恋愛」が時に見られるような気がする。愚劣な映画だったと私は思っているが、「タイタニック」で男は死に、女は生き残ったというのが、わりと象徴的な感じはあるwww

(追記2)

これも同じ本の中にある言葉だが、「結婚や性関係によって自分自身が憧憬の対象としての価値低下を引き起こすというメカニズム」は、「結婚や性関係は恋愛の終わりである」、というメカニズムと言ってもいい。だから、すべての恋愛物語は結婚か性関係の締結で終わるのだが、その読者や視聴者は、それが「話の終わり」だとしか思わず、「恋愛の終わり」であることに気づいていない。つまり、そこで恋愛は死んで、結婚生活や性関係という別の相に移行するのであり、相手への幻想もそこで終わるわけだ。
そう考えると、見合い結婚や仲人結婚という昔の習慣、つまり「恋愛抜きで結婚する制度」は案外賢明だったかもしれない。なぜなら、そこには幻想が無く、したがって「失望」も無いからだ。逆に、そこから「夫(妻)への恋愛」が始まる可能性すらある。相手の実態を知った上で愛情が持てるなら、それこそ最高の関係だろう。


老化障害と「歩くこと」

「東海アマ」ブログだが、自分自身の体験も含む、かなり的を射た考えだと思う。
私は膝が悪くて歩くのが苦手なのだが、そのためにいろいろ障害が起きているらしい。
まあ、今からでも毎日歩くように努力しようとは思う。

(以下引用)

死より怖い認知症

カテゴリ : 未分類
 
 父も母も最期は認知症になって死んだ。
 80歳を過ぎて認知症と無縁の人はほとんどいない。誰でも、権力・身分・蓄財の差別なく、高齢になれば、脳が劣化し、認知機能が衰え、まるで子供のように他人に世話になって死んでゆかねばならないが、認知機能の進行は、ときには死よりも、はるかに恐ろしい。
 認知機能というのは、人格そのものであると考えることもできるからで、それが崩壊することは人格の崩壊、消滅を意味するのだ。それは死と同じものだ。

 https://payroll-memo.work/teinenn/

 私は一人暮らしなので、自分の世話を自分でできなくなったときが、自分という人格存在の終わりだということを思い知らされている。
 トイレに立てなくなれば、布団も衣類も部屋中も糞尿だらけになってしまう。食事も水も自分で取れなくなれば、数日で死んでしまうだろう。
 最期は、自分で自分の始末をつけるしかないと覚悟している。せめて、それくらいの認知機能は残しておきたい。

 介護保険があるとはいっても、せいぜい気休め程度だ。あれは、小泉純一郎が新たな金儲けシステムの介護産業を設立したということであって、それが認知症問題を解決するわけではない。

 母子二人を殺した飯塚工業技術院元院長の裁判経過を見ていれば、誰にでも老化ということの意味が理解できる。
 彼は、自分のことにしか関心がなく、自分を正当化することしかできない。「他人に対する思いやり」の認知機能が完全に欠落しているのだ。
 日本中の優秀な介護士を動員しても、飯塚氏の認知機能を正常に戻すことはできない。だが、それは誰にでもやってくることだ。告発する松永さんにもやってくる。

 だが、今から半世紀以上前、たぶん認知症は今より圧倒的に少なかった。

忍び寄る「総認知症社会」の恐怖 2021年04月30日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1479.html

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私が自分自身の認知症を疑い始めたのは、たぶん50歳を過ぎたあたりからで、最初の症状は、直前記憶の喪失と、固有名詞記憶の喪失で、とりわけ固有名詞を思い出すのに、ずいぶん時間がかかるようになったことにショックを感じていた。
 他人と話す言葉のなかで、「あれ、それ」という指示代名詞がやたらに多くなった。

 実は20歳前に、バイクで転倒事故を起こし、大脳萎縮障害の後遺症が残ったので、そのせいで海馬が萎縮し、記憶力がひどく衰えたことに気づいていた。
 事故以前から古典ギターを自習していたが、事故以降、記憶力がひどく衰えて長い曲が覚えられなくなった。
 これが、たぶん50歳以降、急速に記憶力が悪化した原因ではないかと思っていた。

 だが、いろいろ調べてゆくうちに、人間は50歳を境にして、海馬が衰えてゆくのが普通で、だからこそ、1960年台まで、企業の定年は事務系で55歳、現場系で50歳という若さだったのだ。
 https://payroll-memo.work/teinenn/

 つまり、人間は50歳を過ぎると、もはや使い物にならないと思われていたわけだ。
 その後、定年制度が延長され、60歳、あるいは65歳が普通になり、今では竹中平蔵が「90歳まで働かせる」と公言する時代になったが、竹中や安倍晋三の思惑が通用するはずがないことは、上の行方不明グラフを見れば一目瞭然だ。
 人々の平均寿命は上がったが、精神的健全性は衰える一方なのだ。

 過去のブログで繰り返してきたように、我々の世界では、何かを得れば、引き換えに何かを失うようにできている。
 この意味でいうと、我々が「便利さ」と引き換えに、脳機能や精神の健全性を失ってきたことが明らかだ。

 「便利さ」というのは、車とパソコン、それに労働と労働時間の減少だろう。
 車の歴史も100年を超えるのだが、それがもたらした最大のものは、おそらく人々から「歩行時間」を奪ったことだろう。
 つまり、車は人から「歩く時間」を奪った。我々は車によって歩かなくなった。これが認知症の激増と完全に一致することは明らかだ。

 「歩くこと」の本当の意味は、第二の心臓といわれる「ふくらはぎ」を稼働させることだ。立つ動物である人間は、重力のせいで全身の血液が下腿に集まる仕組みがある。
 これをふくらはぎの筋肉が歩くことで収縮させ、心臓に血液を押し戻す機能がある。
 歩く時間が減ると、下腿の血液が心臓に戻りにくくなり、歩けなくなった人々の大半が、下腿が腫れることになる。

 そうなると下腿の大静脈に「深部血栓」ができやすくなり、ちょうど「エコノミークラス症候群」と同じ状態になってドロドロになった下腿の血液が全身に送られるなかで、肺塞栓や心筋梗塞、微小血栓による脳梗塞などが起きやすくなる。
 何よりも、全身の体液の循環が滞りがちになってしまう。

 このことが認知症の最大の原因ではないかと、すでに半世紀以上前からくり返し指摘されている。
  https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/10/post-8712_2.php

  https://special.nissay-mirai.jp/jinsei100y/hints/C2IV9

 アルツハイマーの原因はアミロイドβやタウ蛋白といわれているが、これが脳に蓄積すると深刻な認知症を発症する。だが、こうした認知症発症物質は、かなり前から知られていて、毎日運動して体液の循環が活発な人は、血流に流されて消滅することも知られている。
 最近発表された600万円もするアミロイドβ除去薬など使わなくとも、ただ毎日一生懸命歩いていれば、脳から有害物質が排泄されてゆくのだ。

 だから、車の便利な快適生活による運動不足が、認知症を引き起こしていると考えるべきなのだ。
 歩かない人には、アミロイドβの蓄積→認知症という罰が与えられると考えてもよい。

 私が、このブログを、ほぼ毎日更新して、すでに5年くらいだが、わずかな量の文章であっても、アイデアの種が尽きて、本当に書けないときがある。
 書いていて、突然、脳がヒステリーを起こすこともある。これは脳に蓄積した有害物質が悪さをしているのだと考え、対処法として、体液の循環を促す40度30分以上の入浴とか、散歩とかをすれば、また脳が活性を取り戻して書けるようになる。

 私は、間質性肺炎で、早朝、5Km以上歩かないと、呼吸ができにくくなって苦しいので、この5年程度は、ほとんど毎朝歩いているが、標高差150mの山道を歩いて帰宅すると、脳の血流が回復して、呼吸も楽になり、多少の文章も書けるようになる。

 だから、今では歩けない台風や豪雨の日は恐怖だ。散歩道には熊やマムシが出てくるが、そんなものより、認知症の方がはるかに怖い。
 歩かなければ、前立腺癌治療のために毎日飲んでいるホルモン剤のせいで、たちまち深部血栓ができて、それが脳や肺や腎臓に回って微小梗塞を起こすことが分かっている。脳に入れば微小脳梗塞から脳細胞死滅を引き起こす。
 だから必死になって、ふくらはぎを稼働させているのだが、このことで、辛うじて認知症の進行を食い止めているという自覚がある。

 便利になったことを喜んで歩かない人々は、自分の未来を崩壊させているようなものだ。例え、長寿を全うしても、その大半が認知不能状態であれば生ける屍であって、生きていることの意味がない。
 なお、認知症の発症について、歩かないこととともに、糖尿病発症も大きな要因となっていることを書いておかねばならないが、歩かねば糖尿病になるので、これも必死に歩くことで解決できる問題だ。

 https://www.healthcare.omron.co.jp/resource/column/topics/112.html

 https://info.ninchisho.net/prevent/p70

 糖尿病になれば、医者に行って薬をもらうという発想は、いいかげんやめた方がいい。根本原因は、運動不足からオーバーカロリーが有毒化しているということなので、本当の解決策は一生懸命歩くことしかない。それも、山道のような傾斜で、汗をかいて日光を浴びながら日7000歩を毎日欠かさず歩けば解決できるのだ。

 これからの老人は、便利さを捨てて、何が何でも歩くという姿勢を大切にすべきだ。
 ふくらはぎという第二の心臓を活性化させることで、全身のドロドロ血液、血栓を掃除する。
 実は、車の問題だけではなく、コンピュータにも同様の問題が隠れているのだが、これは別の機会に。