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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

人間はここまで残忍になれる

前に、「暴力の三原則」として
1)暴力は具体的な存在に向かう。
2)暴力は近くの(目の前の)存在に向かう。
3)暴力は自分より弱い存在に向かう。
と書いたが、暴力自体が一種の快感である、ということがその土台にある。つまり、弱い存在に暴力をふるうことが、自分の「強さ」を証明するように思え、快感を得るわけだ。そこに「暴力をふるう正当な理由(相手への憎悪、相手の存在による自分の不利益など)」があると、暴力はエスカレートしていく。
下の事件の場合は、この最後の要素が大きいと思う。つまり、妹の面倒を見なければならないという義務的束縛感が、妹に対する憎悪をエスカレートさせたのだろう。
詳しい事情を知らないが、現段階の情報で言えば、一番の罪人は育児を放棄している母親だと思う。しかし、そうせざるを得ない事情(たとえば、父親が家族を捨てたなど)があったのかもしれない。いずれにしても、兄が無力な幼児(妹)を死ぬまで殴りつけるという、陰惨極まる事件である。



 
 
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女児が倒れていた公園のジャングルジムには花束やジュースが供えられていた=6日、大津市© 産経新聞 女児が倒れていた公園のジャングルジムには花束やジュースが供えられていた=6日、大津市

小学1年の妹=当時(6)=に暴行を加え死亡させたとして、傷害致死容疑で逮捕された大津市の無職少年(17)が容疑を認め、「連続で何十発も殴ったり、蹴ったりすることもあった」との趣旨の供述をしていることが10日、捜査関係者への取材で分かった。妹の全身には約100カ所の皮下出血の痕があり、滋賀県警は少年が激しい暴行を繰り返していたとみて、動機や経緯を慎重に調べている。

捜査関係者によると、少年は「7月22日から暴行するようになった」などとも供述。前日の21日未明には、少年が妹を連れてコンビニエンスストアにいるところを不審に思った従業員が110番し、県警が児童相談所に連絡していた。その際、妹には目立った外傷は確認されなかったという。

さらに母親が留守がちで、少年と妹は千円の食事代だけで1日を過ごす日があったことも判明。大津市の小学校では7月20日に終業式があり、夏休みに入って妹を世話する時間が増えたことが暴行につながった可能性もある。

少年は今月1日、大津市の児童公園で、一緒にいた妹がジャングルジムから転落したとして、近隣住民に119番を依頼。妹は搬送先の病院で死亡が確認された。県警は当初、事故死の可能性が高いとみて調べていたが、司法解剖などの結果、妹の内臓の一部が破裂し、死因は外傷性ショックだったことが判明。少年が暴行を加えたとみて、捜査を進めてきた。

少年は母親と妹の3人暮らしで、今年4月から同居を始めた。大津・高島子ども家庭相談センター(児童相談所)は4月以降、家庭訪問するなどしていたが、「家庭内のトラブルはなかった」としていた。



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畑に転がった捨て野菜を拾っても窃盗罪

プロの文章だが、SNSに載り、コピー可能ならコピー可だと見做して転載する。
警察に捕まった経験のある人は少ないだろうから、「常識でない常識」のひとつだ。「野あらし」という罪名を知っている人も少ないだろう。
山上たつひこのこのコラムが掲載されているのは「GQ」とかいう正体不明のウェブ雑誌で、やたらに気取った記事が多いが、そこに山上たつひこというのは異色の取り合わせだ。

(以下引用)

漫画家と夜食──インスタントラーメン──は切っても切れない関係にある。

「ごん」(一九六八年八月号~十一月号 日の丸文庫)に短編を発表していた頃、ぼくは夜食が楽しみで原稿を描いていたようなところがある。

具のキャベツとダマになった卵が麵と絡み合って「旨味、旨味」と口中を回るあの幸福感は神様が徹夜する漫画家のために用意してくれた贈り物だったような気がする。

その夜はラーメンの具材がなかった。

「畑にキャベツがあるやないか」

ぼくは気がついた。練馬区南大泉はキャベツ畑だらけだった。このときは収穫期で畑にキャベツは残っていなかったが、売り物にならない傷もののキャベツがいくつか黒土の上に転がっていた。腐っているわけでもない。ちょっとばかり見栄えが悪いだけだ。中身は普通に食べられる。

「あれを取りに行こう」

どうせ腐らせて畑の肥料にするキャベツだ。その前に人間の口に入れたところで非難されるいわれはあるまい。ぼくは谷内力男を連れてアパートを出た。手に提げたバケツには菜切り包丁と懐中電灯が入っている。

黒土の畑には収穫から残されたキャベツが放置されている。誰もそれを取りに行かないことがぼくには不思議でしょうがなかった。

懐中電灯を照らしながら畑に入った。放置されたキャベツはぼくの目には完全な野菜に見えた。これのどこが悪いのか。包丁でキャベツの底部を切り取りバケツに入れた。

ライトが光った。巡回中のパトカーだった。

パトカーはぼくと谷内に気づいたようだった。ライトが接近し、ぼく達のいる畑の前に停まった。映画の「夜の大捜査線」みたいだな、とぼくは思った。《夜の熱気の中で》──シドニー・ポワチエとロッド・スタイガー共演のアメリカ南部を舞台にしたミステリだ。

警官が二人降りて来た。

「何をしてるんだ」

警官の一人が畑に入って来てぼくの前に立ちふさがった。ここは日本だし、練馬だし、キャベツ畑だから銃は突きつけられなかった。

「ちょっと、ラーメンに入れるキャベツを取りに……」

しどろもどろの口調でぼくは弁解したと思う。

ぼくの手の菜切り包丁に気づいた警官の顔が緊張した。

「おう、こりゃまずいね」

警官はぼくの手から包丁を取り上げ、ぼくの腰のベルトを摑んだ。慣れた素早い動作だった。

「署まで行こうか」

谷内力男も片方の警官にベルトをつかまれていた。

石神井警察署に着くと警官がどやどやと集まって来た。六人ほどいたのではないか。深夜の警察署にこんなに警官がいるのかとびっくりした。ぼくと谷内は緊迫した雰囲気の中で警官に取り囲まれた。

畑に捨てられたキャベツ一個を持ち帰ろうとしただけでこれほど物々しい取調べを受けるのか。パトカーの中ではわりあいと気楽に構えていたぼくは急に心細くなった。あとで事情を聞いて合点がいった。

この日、武蔵小金井で強盗殺人があり、ぼく達はその容疑者に間違われたのである。連絡の手違いで強盗殺人犯を二人確保したらしいと思い込んだ夜勤の連中が駆け寄って来たというわけだ。ぼく達がただのキャベツ泥棒だと知ったときの彼等の落胆した表情といったらなかったな。最初、ぼくを畏怖の眼差しで見ていた警官が急に見下した視線を送ってきた。深夜の警察署で一目置かれるには強盗殺人ぐらいでないと迫力が足りないのだ。

ぼくは指紋を取られ、住所やら本籍地を問われた。罪名は「野荒し」であった。警官が書類に書き込んだ下手糞な文字を憶えている。

「お前らなあ、お百姓さんがキャベツひとつをつくるのにどれだけ汗を流してるのか知ってるか?」

書類を書き終えた警官がぼくの方へ向き直り説教を始めた。マニュアルでもあるのだろうか。野荒し相手にはこう、かっぱらい相手にはこう、無銭飲食にはこう、警官は慣れた口調だった。

「お前らどう見ても重大犯罪を犯せるような顔じゃないよな」

警官は薄笑いを浮かべていた。

屈辱だったな。いや、だから強盗殺人でもやらかしたろかい、と考えたわけではありませんけれど。

ぼくと谷内は犯罪者よりも下級の人間として扱われたのである。

ぼく達は警察署を出た。明け方近くだったと思う。石神井から保谷まで歩いて帰ったのか、タクシーを拾ったのか、よく憶えていない。財布を持っていなかったからたぶん徒歩で帰ったのだろう。

警察は、連行するときは車に乗せてくれるのだけれど、帰りは送り届けてくれないのだということを初めて知った一夜でもあった。

文章読解問題

某ツィートだが、小論のネタとして面白い。「このエピソードをできるだけ細かく分析して、どういう解釈が可能か、すべて書き出しなさい」という問題である。
ひとつの解釈は、この女性が自分の話は愚痴だとは思っておらず、相手の男性の話し相手になるというボランティア行為だと思っていたということだ。相手の女性の話を「愚痴」だとするのも、その女性を「精神的に脆そう」とするのも、この男性の主観でしかないからである。客観的に推定できるのは、この男性の存在価値はこの女性にとって非常に低いものだったということだろう。でなければ、これほど軽蔑的な態度は取らないはずである。もちろん、この男性もそれを自覚しており、この話自体が自虐的ユーモアなのである。
「同情は平等ではない」は、この小話の締めのセリフとしては効いているが、当たり前の事実を深い真実のように言うことで、書かれたエピソードの些細さとのアンバランスのユーモアを狙ったものだろう。

(以下引用)

昔とある女性(付き合ってはない)の相談に時々のった。愚痴を聞き精神的に脆そうな彼女を心配もした。ある時私自身が落ちこむ事があり吐露しようとしたら「どうしてあなたの愚痴を聞かなきゃいけないの」と言われた。あれだけ話を聞いたから俺も話して当然と思ってしまったのだ。同情は平等ではない




物事をきちんと「分けて捉える」ことが論理の基本

私はナンセンスユーモアは好きだが、それはその構造が論理の裏返しであるからだ。最初から論理性の無い言論は私には耐えがたい。前回の内田樹に関する記事は、そういう非論理性への怒りだと思う。まあ、怒りそのものが感情であり、論理ではないのだが。
それはともかく、一時的にメモしておいた問題をここで考えてみたい。
先に、その「問題」を転載(自己引用)しておく。

(以下自己引用)

面白い指摘だが、論理(大筋は賛成)が大雑把すぎる感じだ。後で考察してみたいのでメモとして保存し、追記する予定。


(以下引用)


芦辺 拓
@ashibetaku
60年余生きた経験からすると今の失政がどんな惨状を生もうと「やっぱり自民党でないとダメなんです!」と声があがって何も変わらない。さすが敗戦後はそんなことはなかったと思いきや、公選になった知事・市長に選ばれたのは旧内務省の官僚ばかり。つまり官選と同じ結果。日本人はとにかく変えられない



(自己引用終わり)

芦部拓のこの発言のどこに問題があるかというと、論理の基本である「問題の要素を分けて、そのひとつびとつを正確に検討する」という作業ができていないということだ。まあ、直感的な判断だ、ということだろうから、ツィッターなどではそれが普通ではあるだろう。
1:敗戦後と現在を比較しているが、当時と現在は状況がまったく異なる。芦部氏は「敗戦で人民は日本の政治の誤りに気付いただろう」という前提で考えているが、敗戦後の国民は、完全な混乱状態にあったのであり、日本の政治が間違っていたという自覚を持った人間はほとんどいなかったはずだ。知事や市長を選ぶ際に、判断の根拠となるのは、候補者の「実績」「学歴」だけであるが、敗戦当時に地方自治体首長としての実績を持った人間は候補者の中にほとんどいなかったはずだ。政治経験者の多くは「公職追放」されていた以上、政治家に準ずる実績を持つのは官僚、特に旧内務省官僚たちだけだっただろう。内務省は「官僚の中の官僚」であり、庶民から見れば雲の上の人だ。素性の分からぬ候補者に入れるよりは、「優秀な」(と期待される)官僚に投票するのは当然なのである。
2:庶民が自民党に票を入れ続けることと、敗戦時に「官僚出身者」に入れることはまったく別の話であり、官僚=保守層というのは現在を視座とする固定観念にすぎない。戦争時の官僚は国家統制の要であり、当時の日本はいわば「戦時国家社会主義」なのであり、むしろ革新的な思想の者も多く、マスコミ人などは「官僚=アカ」と見做す者もいたのである。
3:「日本人は」という大きなくくりが論理的には根本的欠陥であることは言うまでもない。提灯も釣鐘も「吊るされているから同じ種類だ」とか、月とスッポンも「丸いから同じ種類だ」と言うようなものだ。




ルサンチマンは「思想」か

内田樹のサイトからの転載だが、このツィートに賛同して内田は引用したのだろう。
私は内田樹というのは論文を書くのは上手いと思うが、思想家としてはあまり評価していない。世間ウケのいい発言ばかりしている印象である。
この、引用されたツィートは、愚劣そのものだと思う。ルサンチマンの「強度」という言い方も愚劣だが、世間の人々が「自分のルサンチマンの強度を競うのが思想だと思っている」というのは、いったい何を根拠にしての発言なのか。そんなものを「思想」だと思っている人間はほとんどいないだろう。単に、「自分のルサンチマンをSNSなどの発言で垂れ流す人間は多い」だけの話である。問題は、その発言の土台がルサンチマンだと当人が気づいていないことが多いことだ。こういうのは「思想」でも何でもない。ツィート後半は、「自分は真剣にみんなの幸せを考えているが、他の連中は自分の恨み言を垂れ流すだけだ」という、自分アゲ、他人サゲの卑劣な言説である。そのご当人が、他人の幸せを考えるのは結構だが、考えるだけで何かが実現できるわけではない。自慢するのも愚劣である。
とにかく腹の立つ文章である。こういう文章をわざわざ取り上げる内田樹の頭脳や感覚の程度も信頼できるものではない。

(以下引用)

偉い人も偉くない人も自分のルサンチマンの強度を競うのが思想だと思ってるけどオレにはそれは集団自殺にしか見えないけどなあ。オレは皆が呑気に楽しく生きるにはどうすればいいか、しか真剣に考えてないけど、彼ら彼女らは「お前より自分は辛い」ことをアピールするのが思想だと勘違いしている