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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

国分寺JC(青年会議所)の精神分析

ネットでは「昭和臭がする」というコメントが多いようで、ほかにはモデルがブスという意見もあるが、まあ、ネット民のレベルはそんなもんだ。それより問題はJC(青年会議所)がなぜ政治討論会の主催者になったのか、ということだろう。そのJCというのは親父趣味を遺伝的に持つ集団なのだから、こういうポスターを好むのは当然だ。
このポスターが訴えかける対象はどういう層なのか。女性でないことは明白である。まるで、「私をプレゼントします」と言わんばかりの性的アピールをしているのだから、当然だ。足よりも、コラージュされたリボンや、下の字体にそういう雰囲気が臭っている。手にしたバッグやハイヒールも下品だが、胸元から降りている紐は何なのか。どう見ても、銀座のキャバ嬢ファッション(ただし、店内ではなく同伴出勤時)だろう。国分寺JC(女子中学生の意味ではない)の願望と趣味丸出しである。


まるで男性向けのグラビア? 脚露出の女性モデル使った討論会チラシに批判 国分寺市長選

2021年7月1日 11時10分
 東京都国分寺市長選(4日投開票)で国分寺青年会議所(JC)が計画した公開討論会のチラシに、脚を露出した女性モデルの写真が使われ、ネット上で「今すぐ取り下げてほしい」「あきれるレベル」と批判の声が上がっている。
東京都国分寺市長選の公開討論会のチラシ=国分寺青年会議所のフェイスブックから

東京都国分寺市長選の公開討論会のチラシ=国分寺青年会議所のフェイスブックから

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 討論会は6月22日に予定され、候補者2人のうち1人の都合が付かず中止になったが、チラシは1日午前時点で、国分寺JCのフェイスブックのページで見られる状態になっている。
 同JCは取材に「若い世代に興味を持ってもらえるデザインを念頭に検討した。差別的意図で作成はしていない。不愉快な感情を持たれたことに対しては申し訳なく思っている」と釈明した。
 日本女子大の吉良智子学術研究員(美術史・ジェンダー史)は「男性向けのグラビアにありがちなポーズだ。女性像を目を引きつけるための『アイキャッチ』として利用した」と指摘。JCの回答についても「不快に感じた人に問題を押しつけている」と批判した。(竹谷直子)
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モンタノス派とウルトラモンタニズム

「モンタノス派」はこの「ウルトラモンタニズム」とはまったく別系統のキリスト教(原始キリスト教に近いと思う。)で、私も誤解していた。「ウルトラ」は誤解を招く言葉である。


ウルトラモンタニズム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ウルトラモンタニズム または ユルトラモンタニスム(ultramontanism) とは、キリスト教の歴史上、17,18世紀フランスやドイツにおけるカトリック教会内の教会政治上の論争において、ローマ教皇の首位性を主張した立場。しばしば「教皇至上権主義」「教皇至上主義」と意訳される。転じて、教皇が政治上も絶対的権威を有するという近代の主張もこの語で表される。

概要[編集]

ウルトラモンタニズムを直訳すると「山の向こう主義」。フランスから見てローマはアルプスを隔てた向こう側であることによる。類義語に「バチカニズム(バチカン主義)」「キュリアリズム(教皇庁主義)」が挙げられる。超モンタニズム(=超モンタノス主義)では全くない事に注意。

対立概念は「ガリカニスム」。こちらは直訳すると「ガリア主義=フランス主義」だが、しばしば「国家教会主義」と意訳される。

カトリック教会政治に限定された議論のようでありながら、世俗権力を巻き込む主張・論争に発展したのは次の経緯による。すなわち、王権神授説絶対君主の権威の源は神の意思という説だが、そこからすなわち世俗のより神の代理と称するローマ教皇の権威が優先するという主張が可能であり、これがウルトラモンタニズムである。対してガリカニズムは、フランスの大司教の権威は教皇ではなく直接の神の召しであり、ローマ教皇に従属するものではないとして、その大司教から戴冠した王の権威の上にも直接に神がおり、王は教皇の支配下にはない、と主張した。これに地域教会の独立性の主張の観点から「国家教会主義」の訳を充てる。

したがって、用語ウルトラモンタニズムは「教皇至上主義」と日本語訳されることがあるものの、ローマ教会の権威における公会議と教皇との優位権を巡る公会議主義に対する「教皇主義」、プロテスタントの標榜する聖書の権威が教会に優先するとする「福音主義」に対する「教皇主義」の、どちらも意味しない。



暴力と不合理性と「問題の誕生」

コリン・ウィルソンの「SFと神秘主義」の中に出て来るふたつの思考素、あるいは思考課題を書いておく。前者はヴァン・ヴォークト(文中ではヴォートと書いている。)後者はアルフレッド・コジプスキーという人の思想らしい。

1:「どうして人間はこうも暴力的、不合理なふるまいをするのか」
2:「問題は、われわれの不明瞭な論理と不明瞭な言語習慣から発している」

後者の「問題」がどういう問題なのか、あるいは「すべての問題」なのかは分からないが、ウィルソンの書によれば、2が1の解答であるようだ。(ヴォークトはそう思ったらしい。)
だが、その当否は別としても、1も2も思考素として面白い。

1は、「暴力的」と「不合理」が同じものであることを含意している可能性があると私には思える。もちろん、問題の合理的解決として暴力を手段として選ぶこともあるだろうが、より突き詰めるなら、暴力的なふるまいとは、問題の解決方法が分からないことから来る衝動的行為なのではないか。それは単なる力の行使とは異なるから、「暴発的な」力の行使という意味で「暴力」と呼ばれるのではないだろうか。それは、暴力的な人物のほとんど頭が悪い人物であるという事実と一致しているように思う。(この場合、単純に「人を殺すから暴力」という考えは採らない。冷静に行われた殺人は暴力とは別のものであり、またその殺し方も問題ではない。)

2は、単純にその考えが面白い。つまり、問題自体に問題が内在しているよりも、考える側の思考法によって問題が生じている、という思想と言えるかもしれない。別の見方をすれば、「それが問題だと思う時に問題は生まれる」とも言えるだろう。少なくとも、動物が人生に悩むことは無さそうである。人間が人生に疑問を持つからその生き方が問題になるわけだ。動物同様に自分の人生に悩みを持たない層は存在する。別に悩むほうが高級な人間だとは言わない。むしろ愚かだろう。問題は、問題がどうして生まれるのか、ということで、それはそれを問題視するから生まれる、というだけのことだ。そして、何かの疑問は「我々の不明瞭な論理と不明瞭な言語習慣から来ている」可能性は非常に高いと私も思う。


「レ・ミゼラブル」は現代で日常に生じる話

法と倫理の境界線上の事例で、この最高裁の判決は非常に面白い。ただし、これはいわば「緊急避難」の事例であり、「カルネアデスの板(舟板)」の法的思想なのである。杓子定規な法解釈はしばしば人倫(人情に基づく道徳)に背くことになる。かと言って、金額的に小さい窃盗は逮捕しないという、アメリカ某州(カリフォルニアだったか)の決定は、馬鹿の骨頂だろう。
要するに、困窮者を救う手段が不十分だから、緊急避難の窃盗が生まれるという話だ。新自由主義の跋扈で切り捨てられてきたのがそういう社会のセーフティネットである。

(以下引用)

食品万引きの男性に無罪判決、「必要に駆られた行為」 伊

イタリアの裁判所が必要に駆られての食品の万引きは犯罪に当たらないとの判決を下した

2016.05.06 Fri posted at 12:26 JST

(CNN) 必要に駆られて少量の食品を盗むことは犯罪には当たらない――。スーパーで食品を万引きして窃盗の罪に問われたホームレス男性の上告審で、イタリア最高裁がこのほどそんな判決を言い渡した。

ウクライナ国籍のロマン・オストリアコフ被告(36)は2011年にスーパーマーケットでソーセージとチーズ4.07ユーロ(現在のレートで約500円)分を盗んだとして窃盗罪に問われていた。

レジでは盗んだ食品を上着の下に隠してパンの代金のみを支払っていたが、別の客が店員に告げたことから盗みが発覚し、警察に逮捕された。

2013年の一審では窃盗罪で禁錮6年と罰金100ユーロの有罪判決を言い渡し、15年の控訴審判決も一審を支持した。

しかし最高裁はこの判決を覆し、必要に駆られて少量の食品を盗む行為は犯罪には当たらないと判断。「被告人は緊急かつ不可欠だった栄養摂取のために少量の食品を手にした。従ってこれは必要性に駆られた状況における行為だった」と認定し、無罪を言い渡した。

何がゲンノショウコなのか

どうでもいい話だが、「ゲンノショウコ」という植物がある。これ、凄い名前だと思う。「現の証拠」、つまり「目の前に厳然として存在する証拠」なんだから、植物界で裁判沙汰になれば最強の検事か弁護士になれるのではないかwww
まあ、「ゲンノショウコ」の語源など調べたわけではないから、ただのヨタ話である。
「元野祥子」さんとかいう女性がいたら、法曹関係に進むといい。