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青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳
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菅間 あと、師をめぐる、ちょっと派生的な質問になります。内田さんは、師匠は3人いるっておっしゃっていて、ひとりが哲学者・レヴィナス先生、ひとりが先ほども名前があがった合気道の多田先生、そしてもう一人が、ミュージシャン・大瀧詠一さんだと。『街場の芸術論』所収の「大瀧詠一の系譜学」は読ませていただきましたが、改めて、内田さんにとって大瀧さんはどんな存在なのか、内田さんの大瀧愛などについて伺ってみたいんです。
内田 大瀧さんというのは、僕にとっては自分の研究スタイルについての師匠なんです。大瀧さんは活字媒体じゃなくて、ラジオのDJ番組を通じて、膨大な音楽史的な知識の一端を披歴してくれた。それに対してまったく課金するということをしなかった。いかなる代償も求めず、僕たちに豊かな贈り物をしてくれたわけです。
大瀧さんは天才的な音響記憶の持ち主でした。たぶん一回聴いたメロディはほぼ再生できるんじゃないかな。映画評論家の町山智浩さんの場合は画像記憶ですね。一回観た映画はどんな細部まで記憶している。
菅間 談志も、一回聞いた落語は忘れないって言っていました。
内田 談志もそうですか。そういう天才っているんですよね。僕が大瀧さんから教わったのは物事の関連性を探求することの大切さです。あらゆる出来事には「前段」がある。その前段にもそのさらに前段がある。それをどこまでも遡及してゆくことでその出来事の意味がわかる。「あれって、これじゃん」という気づきがある。
ですから、大瀧さんはオリジナル神話には批判的でした。オリジナルな楽曲なんてあり得ないから。どんな楽曲もどこかから素材を借りてきている。全部どこかから何かをパクってきてる。でも、音楽を作るというのはそういうことだから、それでいいんだって言うんです。「述べて作らず」なんですよ、まさに。
菅間 ここで内田さんの口癖、「述べて作らず」に通じるわけですか。大瀧さんは日本のロック界の孔子だったんですね!
内田 そうなんですよ。実際に大瀧さんは、挑戦的にあきらかにパクリの楽曲をいくつも作っています。『What I say 音頭』なんていうのがあるし、『コブラツイスト』はツイストの名曲を4小節ずつ切り出して、並べただけなんです(笑)アニメの『ちびまる子ちゃん』のテーマ曲「うれしい予感」はピクシーズ・スリーというアメリカのガールズグループの「Cold Colld winter」という曲そのままです。大瀧さんはあえて挑戦しているんです。これを「盗作」とか「パクリ」とかいう言葉で言って欲しくない、音楽を作るというのは「こういうこと」なんだ、と。完全にオリジナルな楽曲なんかこの世に存在しない。だから、自分たちの音楽的感受性を形成した「前段」には相応の敬意を払いなさい。私たちはゼロからものを作ったわけじゃない。「祖述」しているだけなんだ、と。
菅間 それも、全く内田さんと同じじゃないですか! 著作権フリーでいいよっていう。
内田 いや、同じなんじゃなくて、僕が大瀧師匠から学んだことなんです。僕は大瀧さんのラジオ番組、Go!Go!NiagraやSpeech Balloonや山下達郎さんとの「新春放談」を録音した音源を、車の運転をしているは間ずっと聴き続けています。もう50年近くになりますから、僕が「その人の声を最も長時間聴いた人」は家族でも友だちでもなくて、大瀧さんなんです。それだけ聴いても大瀧さんの音楽史的知識の深さと広さには追いつかない。
菅間 そういう、凄まじく該博な知識があっての大瀧さんの傑出した音楽理論、「分母分子論」なんですね。
内田 まさにそういうことです。その分母の大きさが半端じゃない(笑)。
「無人島レコード」という企画があって、「無人島に1枚だけレコード持ってくんだったら何持ってきますか」というアンケートなんです。僕は、古今亭志ん生の落語のCDを持っていくって答えたんですけれど、大瀧さんは『レコード・リサーチ』っていうカタログを持っていくって言うんですよ。1962年から66年までの曲は完璧に記憶しているから、その頁を開くと脳内で音楽が鳴り出す。それを読んだ時にはちょっと寒気がしました(笑)。全ての曲を頭の中で鳴らせるんだ!って。すごいなぁと。
それから、大瀧さんは「ロックンロールは音質の悪いカーラジオで聴かなきゃダメ」って言ってて(笑)、福生の45スタジオに伺った時に、一度だけ大瀧さんのキャデラックに乗せて頂いたことがありました。その車の中で爆音でロックンロールを聞かせてもらった。忘れられない思い出です。こういう偉人を「師匠」と呼ばずして、何と言ったらいいのか。
(3月10日)
クライアントから「こういうWEBページを作りたい」「このまえ作ってもらったWEBページのここを直したい」といった要望を聞き、これを取りまとめてエンジニアやデザイナーに発注、納品されたものをクライアントに渡すという仕事
で、この仕事をやっていて思うんだけどエンジニアって性格終わってる人多くね?
営業やWEBデザイナーといった他業種にはない独特の性格の悪さがあると思う
「心理的安全性?なにそれ?」ってレベルの言葉遣いをしまくってくる
一体この差はなんなんだろう
一応規定のテンプレートに沿って発注書を作ったんだが受け持った案件がちょっと特殊であることがあとからわかって、仕様を詰められていない箇所があった
お疲れ様です。
(以下箇条書き10数個)
お言葉ですが最終チェックはされましたでしょうか?
これくらいのことを送ってきやがった
名指しで送られてきたものだから新人さんもパニックで「すみませんなんか〇〇さんが怒ってます!」って泣きついてくるし、何ならエンジニアチームに苦手意識を植え付けられた感じだった
流石にあまりにもな文面だったから後ほど個別チャットで「新人さんに対してあの文面はないでしょう「もうちょっと配慮してよ、新人さん怖がるよ」「せっかく入ってきた新人を潰したいのか」って内容をきちんとした丁寧語に直して送信したら、
ご指摘いただいた件ですが、開発部としては営業部の教育には関知できません。
って回答になってない回答を寄こしてきやがる
とにかく話が通じない
ちょっとでも情緒的な事情が入ってくるとこちらをシャットアウトしてくるんだよな
これが仮にデザイナーチームへの発注だったらそんなことはないんだよ
きっとチャットで「すいません〜確認したいことがあるので席伺ってもいいですか?」ってきてから口頭で「いや〜今回作るのって仕様が特殊なのでこのあたりの情報が欲しいんですよね〜」「すみませんがここだけ情報追記お願いできますか?」「新人さんなのにすごいめんどい案件受け持っちゃいましたねw」「追加の情報いただいたら次営業日には仮バージョン上げられます!」「頑張ってくださいね!」くらいのにこやかなコミュニケーションはしてくれただろう
(っていうか過去そうやって似たような案件でフォローしてくれた実績がある)
こんな調子だから社内においてエンジニアチームに対しては割と腫れ物を触るような対応になっている
何なら他部門と若干敵対しているような空気さえ流れているんだよな、同じ会社のメンバーなのに
どうにもうちのエンジニアは自分たちの仕事を定期テストの問題を解くようなものだと思っている節がある
問題文に不備があれば「せんせー!ここ間違ってます!」「なんでまちがってるんですか!ここ重要なんですけど!」「次からはちゃんとしてくださいよ!」って野次ってくる感じ
社会人の仕事ってそもそも問題作成のところから相互に協力し合って解決するものじゃない?違うの?
なんか最近は嫌なことがありすぎてエンジニアの連中を同じ人間とは思えなくなってきてるんだけど
こういうの全体会議の機会とかに指摘したほうがいいのかなぁと悩み始めているよ
【追記】
「10数カ所も指摘されるような発注書作ってるのが悪い!」みたいなこと言ってる人がいたので補足
本文に書いてある通りなんだけど新人さんが請け負った仕事は特別な対応が必要なもので、発注書も特別仕様の物を使わなきゃいけなかった
それを通常の仕様のもので送っちゃったってだけのことなのにネチネチネチネチネチネチネチネチネチネチネチネチその通常の発注書にはなくて特別仕様の発注書にはある項目を指摘してきやがったって次第なわけ
それ特別仕様のやつになります!って普通に優しく言ってくれればいいでしょって話
いずれにせよやっぱりエンジニアって人として性格終わってる人が多いってのが反応を読んでよーくわかったわ
・わざわざ高圧的な物言いをしない
・わざわざ人の神経を逆撫でるようなことを言わない
・人に対して気遣いを持って優しく接する
わりとこれって社会常識というか、人と人とのコミュニケーションにおいて絶対に必要なことだと思うんだけどエンジニアってそういうの欠けてるんだな
ディレクター含め出てくる全職種兼任してるけど、新人の仕事に対して確認もしてない自分を棚上げして何言ってんだ?て話。確認してこれなら新人ではなく増田のミス。他部署の人間に自分の仕事をやらせんな
血洗島(ちあらいじま)は、埼玉県深谷市にある大字および地区の名称である。市では八基地区で分類されている。郵便番号は366-0006[4]。面積は615180.118平方メートル[5]。2015年時点の国勢調査で人口は448人、世帯数は145世帯である[5]。旧榛沢郡血洗島村。「近代日本資本主義の父」と称される実業家・渋沢栄一が生誕した場所として知られている[6]。
埼玉県の北部地域で[7]、深谷市の北西部に位置する[6]南北に長い地域。区域の東側を下手計や上手計、南側を町田、西側を南阿賀野や北阿賀、北側を横瀬と隣接する。また北部は横瀬を挟み河川飛び地である群馬県伊勢崎市境島村が近傍に位置する。地区中央部を清水川が東西に流れる。全域が利根川と小山川に挟まれた後背地沿いの沖積平野部に属していて起伏は一切無い。地内は畑などの農地が広がり蔬菜栽培が盛んであるなど、農業的土地利用の比重が高い地域である。なお、地名に「島」という字があるが島ではない。
渋沢栄一が『龍門雑誌』で載せた談話では、赤城の山霊が他の山霊と戦った際に片腕を拉がれ、その傷口をこの地で洗ったことに由来するといったおどろおどろしい説を紹介しているが[21]、他にも、この地がもともとアイヌ語で「ケシ、ケセン、ケッセン」という音の言葉(日本語で言えば岸や末端という意味の言葉)で呼ばれていて、その音をあらわす当て字として漢字の「気仙」や「血洗」を使ったから、「ちあらい」と読むとする憶測(一種の誤読)が生じたとする説[21](付近を流れる「とねがわ」の「トネ」という音も、アイヌ語で「長い」という意味という説がある[21]。隣村の「手計村(はかむら)」の「はか」も、もとはアイヌ語の「ハケ」(崖という意味の言葉)で、音を表記する当て字が「手計」で、それが「ハカ」と読まれるようになったとする説もある[21]。)
他にも、昔この地域で合戦があり、戦場で負傷して片手を失った家臣が切り落とされた片手を洗ったため、血洗島という名前になったという説[21]など様々な説がある。また、3番目の説で挙げた家臣の手を葬った墓は手墓と呼ばれているという伝説もあった[21]。
陸地にあり島でもないのに地名に「島」という言葉が含まれる理由は、もともとこの地域一帯は利根川南岸の氾濫原(洪水が起きやすく、しばしば水没する平原)の中にあり、「四瀬八島」と呼ばれている場所がある(4の瀬、8の島。中瀬・横瀬、内ヶ島・西島など)ということに由来する[21]。