嘘や冗談と社会的地位
チェスタトンが「ポンド氏の逆説」の中で、「本物の嘘つきは、些細な、無邪気な嘘はつかないものだ」という趣旨のことを言っているが、これを言い換えると、「本物の嘘つきはユーモアが無い」と言えそうだ。
安倍や菅や維新の松井や吉村、橋下など、誰を見てもユーモアが無い。
というのは、ユーモアとは、些細な、無邪気な嘘と言えるが、日常的にそういう小さな嘘をついていると、「あれは嘘を言う人間だ」という印象が刻み込まれるからで、例の「オオカミ少年」はその訓話である。だから、大きな嘘をつく人間は、冗談としての小さな嘘は言わない、したがって面白くもおかしくもない発言しかしなくなるのである。
もっとも、日常的に小さな嘘をついている人間が正直だ、という話にはならない。人間は誰でも嘘をつくもので、問題は、その嘘が無邪気な嘘か危険な嘘かを見抜ける目を持つことである。
まあ、自公維新の政治家に限らず、政治家にはユーモアは禁物だろう。冗談好きな政治家など私は見たことが無いが、それで当然だと思う。政治家の発言は常に大きな責任を伴うから、うっかり冗談など言えたものではない。それで失敗した政治家もたくさんいる。
まあ、責任ある立場の人はすべてそうだ、とも言える。だから、そういう連中の発言はみなつまらない。ポジショントークでの嘘はけっこう多いが、その嘘の責任を取らなくて済む地位や立場での発言である。原発村の人間が原発は安全だと言ってもまったく問題にはならないのがその例だ。それが大嘘であることは無数の原発事故で証明されているが、原発村の人間がその責任を取った例はまったく無い。
安倍や菅や維新の松井や吉村、橋下など、誰を見てもユーモアが無い。
というのは、ユーモアとは、些細な、無邪気な嘘と言えるが、日常的にそういう小さな嘘をついていると、「あれは嘘を言う人間だ」という印象が刻み込まれるからで、例の「オオカミ少年」はその訓話である。だから、大きな嘘をつく人間は、冗談としての小さな嘘は言わない、したがって面白くもおかしくもない発言しかしなくなるのである。
もっとも、日常的に小さな嘘をついている人間が正直だ、という話にはならない。人間は誰でも嘘をつくもので、問題は、その嘘が無邪気な嘘か危険な嘘かを見抜ける目を持つことである。
まあ、自公維新の政治家に限らず、政治家にはユーモアは禁物だろう。冗談好きな政治家など私は見たことが無いが、それで当然だと思う。政治家の発言は常に大きな責任を伴うから、うっかり冗談など言えたものではない。それで失敗した政治家もたくさんいる。
まあ、責任ある立場の人はすべてそうだ、とも言える。だから、そういう連中の発言はみなつまらない。ポジショントークでの嘘はけっこう多いが、その嘘の責任を取らなくて済む地位や立場での発言である。原発村の人間が原発は安全だと言ってもまったく問題にはならないのがその例だ。それが大嘘であることは無数の原発事故で証明されているが、原発村の人間がその責任を取った例はまったく無い。
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