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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

身の回りにある「習慣」や「行事」という見えない罠

町山智弘の記事である。

そもそもせっせと水をやって育てた草を次から次に刈っていくことに何の生産性があるのか?

は、痛烈だが、案外誰も疑問を持たないことだ。そこに疑問を持つのが素晴らしい。
案外、こういう無意味な行為というのは我々の周囲にたくさんあるのではないか。しかもそれは、どこの誰とも知らない商売人が金儲けのために始めた風習なのである。クリスマスやバレンタインデーを利用した商売などは新しいだけに、その商業的意図を知らない人はいないが、結婚式や葬式なども案外、商業性が根底にあるかもしれない。知らない人は多いだろうが、学校の制服というのが、制服業者と学校との癒着で高値維持されていることなどもそれである。
町内会が戦時の隣組の遺風であることも知らない人は多いだろう。つまり、政府による民衆管理の手法である。
よく考えるとメリットよりデメリットが多い行事や習慣には、誰かが背後で儲けている(何らかの利益を得ている)、などの理由がある。



(以下引用)




 映画『グラン・トリノ』で、ライフルを構えたクリント・イーストウッドがチンピラたちに怒鳴った時、アメリカの映画館では爆笑が起こった。

 なんで?

 アメリカ人に聞いてみると、あのセリフは頑固ジジイが庭に入って来た近所の悪ガキを叱る時の常套句だそうだ。昔、日本にもいたでしょ。子供嫌いのジイさん。野球のボールがそのジイさんの庭に落ちたりすると怖くて入れないわけ。

 でも、アメリカの場合、芝生にはもっと重要な意味がある。アメリカン・ドリームの象徴なのだ。

 自分が生まれて初めて芝生を持ったのは2007年。住宅バブルのピークで家を買ったのだから大馬鹿だったが、それは置いといて、感慨深かったのは、前庭の芝生に立った時だ。

 アメリカ映画やテレビで観た一戸建てには必ず前庭に芝生がついていた。わずか10坪ほどの芝生だけど、草を手で触ってみると「ああ、オレはアメリカに家を持ったんだ」という実感が込み上げてきた。小学校2年の娘は芝生がうれしくて、何度もカートホイール(横とんぼ返り)をしていた。

 まず芝刈り機を買った。ガソリンエンジン駆動や電気式は安くても2万円以上。高いなあとは思ったが、ぶんぶん唸る芝刈り機を押していると自分が映画やテレビで観たアメリカの父親になった気がする。

 ぎこちなく芝を刈っていると近所のお父さんたちが次々に寄って来て、芝生ビギナーの異邦人にレクチャーしてくれる。

 隣のアールさんは「ちっちっ、そうじゃない」と人差し指を振る。「芝刈り機を押す時は少しずつラインをダブらせるんだ。でないとトラ刈りになる」

 水を撒いていると向かいのトムさんが道を渡って来て「午前中に水を撒いても無駄だ」と言う。「草が水を吸い込む前に太陽の熱で蒸発するだけだ。日が落ちてから撒きなさい。ちょっとじゃダメだ。草がひたひたになるぐらいたっぷりとね。この面積なら最低10分以上かけて、春夏は少なくとも3日に1回」

 芝生のど真ん中に生えたタンポポを抜こうとすると2軒離れたジョシュさんが「抜いちゃダメだ!」と止める。「タンポポの根っこは深くて切れやすい。切れるとそこからまた生えてくる。細いシャベルを買ってきて、根っこの周りを深く掘らないと。あ、それよりも、そのへんに生えてるのは芝生じゃなくてクラブグラスという雑草だよ。一見芝生に見えるけど、どんどん芝生を侵食していくインベーダーだ。早く抜かなくちゃ」

 クラブグラスはその名の通り蟹の足のような固い地下茎で広がって行く。タフで、抜いたり切ったりが難しいので、専用の除草剤を買った。

 そしたら今度は薬が強すぎたのか芝生が枯れてマダラになってしまった。今度は芝生用の肥料を買ってやる。さらに芝生の縁を綺麗な直線にするために、電動のエッジカッターを50ドルで買う。延長コードは30ドル。

 家を買った当時は毎週日曜日に芝生の手入れをした。雑草を抜いて、刈って、掃除して、水を撒いて、全部終わると1時間ちょっと。

 翌年の夏、試行錯誤の末、芝生はやっと綺麗な緑色になった。その輝きを眺めていると、アールさんが肩を叩いて言った。「Welcome to American home ownership.」

 でも、その芝生は今はもう枯れ放題だ。3日に1回の水撒きは1週間に1回になり、ひと月に1回になり、しまいにはしなくなった。当然芝生は枯れてしまったが、おかげで刈らなくてよくなったし、何より水道代が安くなった。芝生は風呂よりはるかに水を必要とするのだ。そもそもせっせと水をやって育てた草を次から次に刈っていくことに何の生産性があるのか?

 前庭の芝生は何の役にも立たない。バーベキューは前庭ではなく裏庭でするのが常識。デッキチェア置いて日光浴なんて論外。子どもも大きくなると芝生で転がらなくなった。

 じゃあ、この芝生は何のためにあるのか?

 不思議になって調べてみると、『アメリカン・グリーン/完璧な芝生の異常な追及』という本にすべてが書いてあった。著者のテッド・ステインバーグ教授は『ダウン・トゥ・アース/アメリカ史における自然の役割』などの著書のある環境文化史研究家。

 その本によると、芝生の起源は英国貴族の庭園にあるという。芝生は飼っている羊の餌でもあった。アメリカへの入植者はそれを新大陸でも再現しようとして種を輸入した。つまりアメリカの芝生は外来種なのだ。

 とはいえ、そんな庭が持てるのは一部の資産家だけだった。それが庶民の一戸建てに広がったのは、1947年、ニューヨークの郊外ロングアイランドで売り出された建売住宅が始まりだった。

 その住宅地はデベロッパーのエイブ・レヴィットの名を冠してレヴィッタウンと呼ばれた。第二次世界大戦から復員して結婚した若夫婦(ベビーブームの親たちだ)のための手頃なマイホームとして作られ、全部で17000戸の家はどれも形はほとんど同じで、敷地面積は23坪ほど。最大のセールスポイントは前庭の芝生だった。

「訪問者が最初に見るのは芝生です。第一印象は最後まで残るものです」それがレヴィットの宣伝文句だった。彼の目論見は大当たりしてレヴィッタウンは大ヒット。前庭の芝生は、当時全米各地に急速に広がっていた郊外住宅地の設計に取り入れられた。『グラン・トリノ』のイーストウッドが買ったデトロイトの家も、そのひとつだろう。

 前庭の芝生はアメリカン・ドリームの象徴となり、今や全米の芝生面積は8万5000平方キロという。なんと北海道の面積に匹敵する。それを維持するための芝刈り産業も巨大化した。でも、元をただすと、1人の不動産屋の思いつきにすぎなかったのだ。

 それから60年以上が経った今、そろそろ芝生幻想は捨てるべきだろう。

 全米で芝生に撒かれる除草剤の量は年間3万5000トン。それが地下に浸透し、地下水や川や海を汚染している。芝生に撒かれる水の量は各家庭で平均3万8000リットル。アメリカは砂漠が多く、特にカリフォルニアは毎年のように水不足に悩んでいるのに、こんな無駄をしていいのか。

 ただ、枯れた芝生をいつまでもそのままにはしておけない。あまりに近所の美観を損ねると区画の管理組合から罰金を科せられるから。竜安寺みたいな石庭にでもするか。

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