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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

ケチの効用(オッカムの剃刀)

「オッカムの剃刀」という言葉はよく知られているが、それが何を意味しているかは明白ではない。バートランド・ラッセルの解釈も、オッカム自身の言葉によるものではなく、オッカムの思考法全体から彼が解釈したものだろう。
で、下のウィキペディアの説明の中にもおかしなところがあり、

信仰と理性[編集]

オッカムのウィリアムは「信仰によってのみ人間は神学的真理に到達できる。神の道は理性に開かれていない、というのは神は何物にも縛られずに世界を創造することを選択して、人間の論理や合理性が物事から覆いを取るのに必要な法則に頼ることなくその世界での救済の方法を打ち立てるからである」と信じていた[5]。オッカムの神論は個人的啓示と信仰のみに基づいていた(彼は信仰と理性が矛盾しないという考えを支持していた)。科学のみが発見の方法であり、科学のみが神を唯一の存在論的必然物とみなすことができると彼は信じていた[6]


という記述は、前半と後半が矛盾している。前半では人間の論理や合理性を否定し、信仰によってのみ人間は神学的真理に到達できる、としながら、後半では「科学(注:すなわち,人間の論理や合理性)のみが神を唯一の存在論的必然物とみなすことができると信じていた」と書いている。この矛盾の言い訳のように(彼は信仰と理性が矛盾しないという考えを支持していた)と書いているが、この項目全体の記述自体が馬鹿だろう。
そこで、本題だが、「オッカムの剃刀」を非常に単純化するならば、「学説や理論は単純なほど優れたものである」という簡単な言葉になるのではないか。いわば、「ケチの効用」だ。畑を耕すのには鍬ひとつで十分で、包丁や鍋や大工道具一式を持っていてもムダだということだ。それらの雑多な道具は耕作作業にはむしろ邪魔なのである。その種の「無駄の多い論文」は当然ダメ論文である。

なお、「オッカム」とは実は地名にすぎないのだから、「オッカムの剃刀」とは「江戸の剃刀」とか「大阪の剃刀」とかいうのと同様に、剃刀の名産地の話か、ということになりそうだ。(現実に江戸や大阪が剃刀の名産地だと言うのではない。)しかし、「ウィリアムの剃刀」では、ウィリアムという人物が多すぎるわけである。

なお、この「オッカムの剃刀」は日常的な「生活の技術」でもある。
もちろん、それは「余剰こそ文化である」というのと並立して用いるべき生活技術だ。


オッカムのウィリアム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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William of Ockham
サリーにある教会のステンドグラスに描かれたオッカムのウィリアム
生誕 1288年頃
イングランドオッカム
死没 1347年 or 1348年
神聖ローマ帝国ミュンヘン
時代 中世哲学
地域 西洋哲学
学派 フランシスコ会
研究分野 形而上学認識論神学論理学存在論政治学
主な概念 オッカムの剃刀唯名論
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1341年に描かれたと思われるオッカムの似顔絵

オッカムのウィリアムWilliam of Ockham1285年 - 1347年[1])は、フランシスコ会会士、後期スコラ学を代表する神学者哲学者。通例オッカムとのみ言及されるが、これは下記のように姓ではなく出身地で呼んだものである。哲学や科学における節約の原理「オッカムの剃刀」の提唱者として知られている。

経歴[編集]

1285年イングランドオッカム村[2]に生まれる[3]オックスフォード大学で学ぶ。30歳を過ぎても命題集講師[4]の職にとどまっていた。と言うのは、ボナヴェントゥーラ系フランシスコ会士として、トミスト(トマス・アクィナスの継承者)の立場をとる学長、ジョン・ラットレルと対立していたからである。フランシスコ会の会則の解釈をめぐり、いわゆる清貧派の立場をとる。普遍論争では急進的な唯名論の立場に立つ。1323年、ジョン・ラットレルから異端だとして当時アヴィニョンにあった教皇庁に訴えられる。ローマ教皇ヨハネス22世と対立、1324年、異端審問のためアヴィニョンの教皇庁へ召還される。1326年、教皇は、オッカムの学説を異端として破門を宣告する。 このときマイスター・エックハルトも異端の容疑で告発され、オッカムはエックハルトと会ったことを書き残している。

オッカムはフランシスコ会総長チェーザナのミカエルとともにアヴィニョンからミュンヘンへ逃亡し、聖職叙任権などをめぐり教皇と対立していた神聖ローマ帝国皇帝ルートヴィヒ4世の保護を受けた。その後ミュンヘンに居住したオッカムは、同地でペストによって没し、市城壁外のペスト死亡者用墓地に葬られた。

信仰と理性[編集]

オッカムのウィリアムは「信仰によってのみ人間は神学的真理に到達できる。神の道は理性に開かれていない、というのは神は何物にも縛られずに世界を創造することを選択して、人間の論理や合理性が物事から覆いを取るのに必要な法則に頼ることなくその世界での救済の方法を打ち立てるからである」と信じていた[5]。オッカムの神論は個人的啓示と信仰のみに基づいていた(彼は信仰と理性が矛盾しないという考えを支持していた)。科学のみが発見の方法であり、科学のみが神を唯一の存在論的必然物とみなすことができると彼は信じていた[6]

哲学的思索[編集]

Quaestiones in quattuor libros sententiarum

スコラ派において、オッカムは方法と内容の両面において改革を唱道したが、その狙いは簡易化にあった。オッカムは数人の先行する神学者の著作、特にヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの著作、の多くを統合した。オッカムはスコトゥスから、神の全能性や恩寵といった概念、認識論や倫理学的意見を受け継いだ。しかし、予定説受難、宇宙の理解、「ex parte rei」(つまり、「物の側の」)の特性、節約の原理といった分野では、オッカムはスコトゥスに反する意見を持った。

唯名論[編集]

個物を超越した普遍本質形相といったものではなく個物のみが存在するものであり、普遍は人間の心が個物を抽象して生み出したものであって心に外在する存在ではないという立場を強く主張したために、唯名論の開拓者であるオッカムを近代的認識論の父とみなす者もいる[7]。彼は形而上学的な普遍が実在することを否定して、存在論の縮小化を唱道した。オッカムは唯名論よりもむしろ概念論の唱道者とみなされることもある。というのは普遍は名前に過ぎない、つまり存在する実在物ではなくむしろ言葉に過ぎないと唯名論者が考えるのに対して概念論者は、普遍は心的な概念である、つまり名前は概念の名前であると考えるからである。ここで概念は心の中にのみであるが存在するものとみなされている。それゆえに、普遍概念は、人間の外部に存在する実在物ではなく、それ自体を理解することによって生まれ心の内で心がそれを帰するものを「前提」する内的表象としての対象を持つ。つまり、それはさしあたって自身が表す物の場所を持つのである。それは心を反映する行為を表す術語である。このゆえに普遍は単なる言葉でもなければ、コンピエーニュのロスケリヌスが言うような「セルモー(:sermo)」やアベラールが言う文の中で使われる言葉でもなく、実在物に対応する心的な代替物であり、反映の過程を表す術語である。このため、オッカムは唯名論者とも概念論者とも区別されて「記号論者」と呼ばれてきた[8]

存在論的倹約[編集]

オッカムが近代科学および近代の知的文化に対してなした一つの重要な貢献として、オッカムの剃刀と呼ばれるようになる、説明や理論構築の上でのケチの原理がある。バートランド・ラッセルの解するところでは[9]、この格言は、ある仮定された存在がなくても現象を説明できるならば、その存在を仮定する理由がない、つまり、常に原因、要因、変数が可能な限り最小となる説明を選ぶべきだということを言っている。彼はこの原理を存在論的倹約に用いた。この原理によれば必要以上に存在を増やすべきでない―「Entia non sunt multiplicanda sine necessitate」―ということになる。ただし、この著名な原理の定式化は現存するオッカムの著作のどこにも見出されない[10]。彼は次のように定式化している: 「自明(語義上は、それ自体を通じて知られる)であるか、経験によって知られているか、権威や聖典によって証明されるかしていない限り、理由がないなら何ものも仮定されるべきではないので[要出典]。」 オッカムにとって、唯一の本当に必要な存在は神であった。他のすべてのものは不確定である。そのため彼は充足理由律を受け入れず、本質と実在の区別を否定し、能動的知性と受動的知性というトマス・アクィナスの学説に反対した。彼の存在論的倹約の要求によって導れる彼の懐疑論は、人間の理性は魂の不滅性も神の存在、唯一性、無限性も証明できないという彼の学説の内に現れる。彼の説くところによればこうした真理は啓示によってのみ知られる。




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