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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

なぜ人生に満足できないのか

「カマヤンのブログ」から転載。
カマヤンのブログやツィッターは私の愛読するひとつで、その頭の良さや知識量、あるいは人生経験の豊富さには感心させられることが多いが、そういう人が「今生は無駄な人生だった」と強く思っているというのは、なぜなのか。
私の推測では、彼の自己評価の高さと自分自身の達成したものとの乖離が大きいことが原因ではないか。つまりあまりに多く、あまりに大きなものを望みすぎたのではないか、と思う。そうすると、自分の達成したものが無意味な、小さいものに思えてきて、自分の人生そのものも無意味だったという気持ちになるのではないか。もともと自分を平凡なつまらない人間だと思えば、人生で得られたどんな小さなものでも素晴らしい恩恵であり幸運だ、と思うだろう。そうすると、「今生は無駄な人生だった」とは思わないと思うのだが。
対比的に考えてみよう。たとえば、良寛の人格や知識や才能は特Aレベルだろうと私は思うのだが、では彼の人生で彼が得たもの、彼が得た生活はどんなものだったか。一般人から見ても、乞食レベルの貧窮である。もしも良寛が、自分の才能にふさわしい生活を望んだとしたら、彼の人生は地獄そのものになったと思う。カマヤン氏は(人格は別として知性や才能の面で)それに近い状態なのではないか。
昔の人は精神医学など無かったし、向精神薬もなかったから、人生の悩み(人生の意義など)は宗教的に、あるいは哲学的に自分で悩んで自分で解決した。それを修養と言ったのである。
はたしてカマヤン氏は向精神薬で自分の精神的問題を解決できたか。むしろ悪化させたのではないだろうか。
なお、カマヤンの母親はいわゆる毒親で、(自分ではまったくそう思っていないらしいが)他害的なキチガイらしい。その母親の存在が彼の人生の最大の悩みであるようだが、私が彼なら、そんな母親は捨てて、自分の妻と子だけ連れて誰も知らないところで新生活を始める。
しかし、そうしたところで、彼は母親に代わる「新しい悪魔」を作り出すような気がするのである。



(以下引用)



久しくブログを書いてなかったこと

1

精神安定剤セルシンを常用するようになってから、ブログを書くことが減った。
書く意欲というか、書こうという衝動が減った。
性欲がここ10年弱でごごごっと減ったのとパラレルな関係なんだろうな、と思う。
人は遺伝子を残したいという衝動があるのと同様に、精神的文化的な遺伝子、ミームっていうんですか違いますか、そういうのを残したいという衝動があって、マンガ描きたいと感じたりブログ書きたいと感じたり、そういう衝動が湧くのは、遺伝子残したいというのに似た衝動なんだろうなあとか思う。
俺は幸いにして肉体的法的伴侶を得、一人だけは自分の遺伝子を肉体的に残すことができたが、精神的文化的意味でのそれを得損ねたというか、ああ、表現規制反対運動というミームだけは残せたか。今は俺の手からは離れているけど。でもな。もっと他にも残せたはずだという、ここに俺の老いらくの後悔がある。

2

今日はちと観光連盟関係で興奮することがあった。
興奮するのを抑えるために多めにセルシン飲んでいたんだが。
目の前に不正義があると衝動がどっと沸くが、それをどうクリアするかということについてはクリアしたいという欲望とか、クリアするための作戦とか、作戦の土台のための情報収集とか、そういうのが必要なんだが、残りの寿命のうちになすべきことへの欲が俺は薄いんで、薄いっつうか枯れているんで、たいして継続的でもないし計画的でもない。

3

田舎で生活していて、幸いにして、俺は金銭に関してあまり苦労していない。これは今のご時世、そして俺のでたらめな今までの生き方から考えて、幸運なことだ。
自分のでたらめな生き方に付き合わせて、もっと堅実な生き方が選択肢にあった友人たちを複数堕落させたことは、俺の悪徳だ。
脳味噌が興奮すると、憂鬱というか自己嫌悪というか今生は無駄な人生だったという感情が湧いてやまない。
この感情は、通常、精神安定剤セルシンを飲むと治まる。今日は治まらない程度に興奮しているようだ。
残り20年強の余生、狂人な老母と過ごすという点がハードモードだ。エネルギーの9割がそれに奪われる。残り1割で仕事とわずかに旦那業と育児をしている。200年くらい前ならもう俺の年齢で老衰していてもさほどおかしくない。余生がムダに長すぎる。



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