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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

社会的責任とモラル

ファインマンの言葉であるようだ。「人は社会に対し無責任であってよい」というのは、言い換えれば「モラルに縛られなくてよい」という思想であり、あるいは「モラルによる自責の念は不幸のもとである」という考えになる。ファインマンが「(社会的無責任感を感じるようになって以来)とても幸福な男になった」のはよく分かる。「責任感」というのは最大のストレスなのであり、権力者が長生きするのも女性が長生きするのも、責任感が彼らを縛らないから、というところは大きいのではないか。(権力者の場合は「敵」の存在がストレスになるから、必ずしも長生きはしないか。しかし、権力者は責任に縛られないというのは確かである。少なくとも、組織内部においてはそうだ。私の聞いた話では、ある私企業の社長は社内の女子社員全員に手を出していたそうだ。)私が女性は心の底でモラルを馬鹿にしている、というのは別に女性批判でも何でもなく、ある意味、人間性の自然に沿った生き方だと見ているのである。
社会的責任というのは社会があって初めて存在するし、モラルとは社会的責任のことなのである。生まれたままの人間にモラルなどあるはずはない。つまり、まったく不自然なのがモラルというものなのだ。しかし、男の場合はそのフィクショナルなものに意義を認め、積極的に信奉する。異性を愛したらセックスしたくなるというのは自然の感情だ。そこに、「近親でのセックスは不可である」「既婚者が配偶者以外とセックスするのは不可である」と禁止をするのがモラルである。


(以下引用)




我々が今生きている世の中に責任を持つ必要はない、という面白い考え方を僕の頭に吹きこんだのがノイマンである。このノイマンの忠告のおかげで僕は社会的無責任感を強く感じるようになったのだ。それ以来僕はとても幸福な男になってしまった。僕のこの積極的無責任さの種はノイマンが播いたのである。

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