ドラマ「不適切にもほどがある!」を娘が観ていて、家族で観るともなしに観ていた(最近このパターン多し。「光る君へ」もそうだ)。
昭和末期の体育教師・小川が令和にタイムスリップしてくるという設定のドラマで、初回を観た時、ぼくはバスでタバコを吸ってしまう小川にちょっと笑ってしまった。
しかし、前半はとかく「令和のポリコレの息苦しさ」という味付けで語られ、ドラマへの批判も少なくなかった。バックラッシュでは、という人もいた。
だが、最終回。令和の歴史的進歩に心身を浸らせ続けてきた小川が昭和に戻ってきたとき、小川が身体感覚として昭和の生き方に強い違和感を覚え、その昭和の抑圧性に反発し、厳しく批判する様は、観ていて爽快だった。
一種の快楽でさえあった。快哉を叫んだ、と言ってよい。
つまり、ぼくは小川よろしく、令和までの価値観に心身を浸らせ切っており、小川と同じような気持ちで、昭和的なものに対して叫びたくなったのである。(ドラマのわりと初めの頃に吉田羊演じる社会学者の向坂が昭和に来て昭和を批判したときは全くそれを感じなかった。外側から批判している感覚が強かったのだ。もともと昭和にいた阿部サダヲ演じる小川だったから説得力があったのだ。*1)
心身が自然な気持ちとして、昭和的な抑圧を拒否していたことを、ドラマを観ながら改めて確認したと言える。それこそが基本なのだ。
この歴史的な到達を基本とした上で、令和の現在をみたとき、必要なことは自己の正義や正しさによって、対立者を撲滅したり、消去したりすることではなく、あくまで相手と対話をし(場合によっては対話をせずに)、自分と立場の違う相手と共存をしようということ、すなわち「寛容であれ」ということをメッセージにしたのだろうと感じた。
共存とか、寛容とか、というのは、手をつないでニコニコという意味ではない。
おそらく相手は不快な存在のままだ。不快であり、気持ちがトゲトゲしくなったままであるが、できれば対話して少しはわかりつつ、あるいは対話すらできずに逃避しつつ、同時代を生きるしかないのである。
最終回で「寛容になりましょう〜♫」と踊り狂うのはそういうことだと思った。
それは最近スペースで議論したことにも重なるな、と思った次第。