恋愛教徒と結婚軽蔑論
だが、恋愛のほとんどすべてが、たとえお互いが性的に結ばれても結局は失恋に終わる、というのが恋愛の実相ではないか。また熱烈な恋愛の末に結婚したとしても、結婚は「恋愛の死」であって、夫婦愛や家族愛は恋愛とは別のものだ。だがその夫婦愛や家族愛は、恋愛教信者が言うような、軽蔑されるべきものだろうか。
下の「縁談」の主人公も、「宝物」のような恋愛をしたと言いながら、その恋愛は「大学時代で終わっている」のである。つまりは、適当な相手と楽しい一時期を過ごしました、というだけのことで、はたしてそれは恋愛なのか。同性の友人と一緒に楽しい時間を過ごしても、同じだったのではないか。そこに「恋愛」というパワーワードを自分で入れることで「自分は人生で最高の時間を過ごしている」という自己暗示が女性にはかかるのではないだろうか。
まあ、それであっても新興宗教を信じる人間が主観的な幸福の中にいるのと同じことで、他人がそれをとやかく言うまでもないが、男である私には、「恋愛脳」は理解できない。
それにしても、柴門ふみの「結婚嫌悪」というか、「結婚軽蔑」は凄いものである。恋愛が地上の天国なら、結婚は一種の牢獄扱いである。まあ、柴門自身、のちに結婚している(しかも、それがあの大俗物漫画「島耕作」の作家であるwww)のだが、漫画はフィクションとは言え、作者自身の意見を作中人物が言うのが柴門ふみの最大の特徴(その意味では一種の思想家である。漫画の形態をとった「弁論書」というのが彼女の作風だろう。)だと私は思っているので、結婚に際してどう自分自身を納得させたのか、興味深い。
(以下引用)
ぼくの2003年当時の文章を再録しておく。
たとえば、「縁談」という短編がある。
同窓会名簿が送られてきて女性の場合、右側にカッコがついて、旧姓を書くことになっている。そのなかに、「石橋(石橋)」というのがあって主人公は不思議におもうのだが、それはたまたま同じ姓の人と結婚したのに、既婚であることをわざわざ知らせるためにカッコでくくったのだという。「かっこでくくられた旧姓の数がわたしをせっついてくる
おいてゆく、おいてゆくぞと警鐘をたたきながら」主人公は結婚をあおられ、あせらされる。
そして、母親がもってきたお見合いの話の相手が、主人公いわく「白ブタ」「あの人にも性生活があるなど想像もできないタイプね」。しかし、主人公は、毛を刈り込んで、メガネをかえ、ひげをはやさせ、メンズビギを着せたら、なんとかなるのではと「前向き」に考えはじめる。
主人公は、大学時代にとろけるような恋愛をしたが、卒業とともにそれが消えたことを思い出としてしまいこんでいる。
「おかあさんて、とろけるほど人を好きになったことないんじゃないかな?
それを思うとね、あたしは幸せ者だわ。
人生の宝物を味わったから、
もう……
もう、いいわ。
別に美人でもないし、格別の才能もないし、
あたしなんか……
白ブタとときめきのない結婚でもいいかなと思っちゃう」
とあきらめの言葉を吐く。
聞いていた義姉も、
「あたしも恋を途中で置いてきたみたい。
結婚生活て恋の緩慢な死なのよね」
とつぶやく。ぼくは、ここまで息苦しい生き方を当時の女性が考えていたことに、ちょっとした衝撃をおぼえる。
社会に出ていく道を閉ざされ、結婚にしか道がないという時代は、ここまで重苦しいものなのか、と思う。
『女ともだち』の主人公たちはほとんどみんな20代であり、特に20代後半である場合が圧倒的だ。この当時20代後半は「結婚」というステージへ移行する「最後」の年齢であり、結婚という「墓場」に入るか、結婚・家庭・子どもをあきらめ「名誉男性」となって生きるかという選択肢しかないように描かれている。
現在のアラサーがどうのとか、アラフォーで大変とか、思いもよらぬ世界なのだ。もし当時の柴門ふみに『東京タラレバ娘』を読ませたら、泡を吹いて倒れるのではないか?
そして、『女ともだち』の主題は明確に「恋愛」である。
上記の引用において「おかあさんて、とろけるほど人を好きになったことないんじゃないかな? それを思うとね、あたしは幸せ者だわ。人生の宝物を味わったから、もう……もう、いいわ。」というセリフに見られる通り、恋愛至上主義ともいうべき価値観が貫かれている。このテーゼは繰り返し『女ともだち』で語られる。
それは1980年代という制約でもあるし、同時に青年誌という男性読者を対象にした女性像の展開という限界でもあるし、柴門個人の当時の価値観の反映でもある。しかしそれこそがまさに柴門が優れた描き手であることの証左だ。時代を、思想や空気まで含めて、そのまま切り取っているからである。
単に自然主義的な描写をするだけではそれはできない。