恋愛と性交
小谷野敦の「聖母のいない国」の中に、
「『真の愛情』に基づく姦通」
という言葉が出てきて、興味深く思ったのだが、少し考えてみる。
そのかなり前の部分に与謝野晶子が「愛に基づかない結婚は不義である」と言ったという記述もあったのだが、これも面白い。
この両者(ふたつの言葉)とも愛を至上の価値があるとしている(前者はホーソーンの「緋文字」に関して使われた小谷野の言葉だが、『真の愛情』を括弧付きで書いているように、小谷野自身が「真の愛情に基づく姦通」を単純に信じているわけではないと思われる。)わけだが、愛というのは何か、という問題もあるし、それがどれほどの価値があるのか、という問題もあるわけで、また、さらに「恋」と「愛」の違いは何か、「愛欲」とか「性愛」とはどう違うのか、という問題もあるわけだ。さらに、異性を愛したら、必ず性交に至る必要があるのか、という問題もある。これに関しては、男の場合は、心から崇拝する女性に対しては、男は勃起できない、という生理的問題もある。まあ、野獣的な男と知的で繊細な男の違いはあるだろうから、これは一般論ではない。
要するに、クリスチャンの男は聖母マリアが目の前に現れたら、それに性欲を覚えるだろうか、というような話だと思えばいい。私の場合は、マリアがどんな服装をしているかによるかと思う。彼女が布の分量の少ない水着姿だったり、ミニスカートだったりしたら、確実に性欲を覚えるだろう。では、クリスチャンはどうなのか。彼女が聖母マリアだということはあらかじめ知っているとしての話だ。
真の恋愛は必ず性交に至る必要があるか、というのは純粋に哲学上の疑問であり、目の前に性的魅力に溢れた裸の異性がいたら、性的能力のある人間なら必然的に性交するだろうが、そういう話をしているわけではない。仮に、「真の恋愛は必ず性交に至る」が真実なら、それはお互いが未婚者か既婚者かに縛られないのは当然である、となる。しかし、パオロとフランチェスカのように、お互いが宗教者であり、互いに愛情を持ちながら、肉体的には最後まで結ばれなかった、という例もある(これは私の勘違いかもしれない。小谷野の同書によれば、この二人は「神曲」に出る姦通カップルらしい。私はアッシジの聖フランチェスコと文通か何かしていた尼僧の関係と勘違いしたのかもしれない。)わけで、ではそれは「真の恋愛ではなかった」と言えるのか、あるいは、単に「宗教の束縛による悲劇」と見るべきなのか。あるいは性的不能者には恋愛は不可能なのか。性的能力が未熟な子供は恋愛感情とは無縁なのか。
最後の事象に関しては、性的能力が未熟な年齢でも「恋愛感受性」は高い場合があり、性的体験を積むと恋愛感受性が劣化する、という見方もできるかと思う。
私は、通常の異性間の愛は漠然とした「愛」とは区別して「愛欲」あるいは「性愛」という言葉を使うのが適切ではないかと思う。それを「恋」と言うのも少し違う気がする。恋というのは、「そこに存在しないもの(自分の手が届かないもの)への憧れ」であるというのが私の考えだ。「憧れ」が恋の本質で、その対象を自分の物にしたい、となれば、それは愛欲であり、その対象とセックスをしたいとなれば、それは性愛だろう。
なお、愛はもっと広範囲なもので、人類愛も家族愛も愛車も愛社も愛犬もある。
では、愛とは何か、と言えば、これもまた哲学上の問題となるだろう。基本的には、その愛する対象に幸福になってほしいという気持ちかな、と思う。
つまり、「性愛」というのは、その中でも一番怪しげなもので、相手の満足より自分の性欲の充足が第一義であるのではないか、と私は疑うのである。まあ、これは私が男であるので、女性の側の心理は分からない。
(追記)同書を読み進めていたら、こういう一文があり、まさに「恋」の根本に触れていると思ったが、「結婚(相手が妻になった時)」ではなく、「最初に結ばれた時に」だろうと私は思う。恋というのは、その希望(相手と結ばれること)が実現した時に消えるというのが最大の特徴なのではないか。まあ、あらゆる憧れ(願望)は、それが実現した時に消えるものだと言えないこともない。
ただし、私のこの思想は結婚否定論ではなく、「恋」というものの過大視を戒めているだけである。結婚後の男女は性愛や愛欲の対象であるより、人生を一緒に生きる友愛と家族愛の対象に変わるのであり、それも素晴らしいことなのだ。
「妻と名がついた瞬間から、女は男にとって憧憬の対象であることを確実にやめていく」
「『真の愛情』に基づく姦通」
という言葉が出てきて、興味深く思ったのだが、少し考えてみる。
そのかなり前の部分に与謝野晶子が「愛に基づかない結婚は不義である」と言ったという記述もあったのだが、これも面白い。
この両者(ふたつの言葉)とも愛を至上の価値があるとしている(前者はホーソーンの「緋文字」に関して使われた小谷野の言葉だが、『真の愛情』を括弧付きで書いているように、小谷野自身が「真の愛情に基づく姦通」を単純に信じているわけではないと思われる。)わけだが、愛というのは何か、という問題もあるし、それがどれほどの価値があるのか、という問題もあるわけで、また、さらに「恋」と「愛」の違いは何か、「愛欲」とか「性愛」とはどう違うのか、という問題もあるわけだ。さらに、異性を愛したら、必ず性交に至る必要があるのか、という問題もある。これに関しては、男の場合は、心から崇拝する女性に対しては、男は勃起できない、という生理的問題もある。まあ、野獣的な男と知的で繊細な男の違いはあるだろうから、これは一般論ではない。
要するに、クリスチャンの男は聖母マリアが目の前に現れたら、それに性欲を覚えるだろうか、というような話だと思えばいい。私の場合は、マリアがどんな服装をしているかによるかと思う。彼女が布の分量の少ない水着姿だったり、ミニスカートだったりしたら、確実に性欲を覚えるだろう。では、クリスチャンはどうなのか。彼女が聖母マリアだということはあらかじめ知っているとしての話だ。
真の恋愛は必ず性交に至る必要があるか、というのは純粋に哲学上の疑問であり、目の前に性的魅力に溢れた裸の異性がいたら、性的能力のある人間なら必然的に性交するだろうが、そういう話をしているわけではない。仮に、「真の恋愛は必ず性交に至る」が真実なら、それはお互いが未婚者か既婚者かに縛られないのは当然である、となる。しかし、パオロとフランチェスカのように、お互いが宗教者であり、互いに愛情を持ちながら、肉体的には最後まで結ばれなかった、という例もある(これは私の勘違いかもしれない。小谷野の同書によれば、この二人は「神曲」に出る姦通カップルらしい。私はアッシジの聖フランチェスコと文通か何かしていた尼僧の関係と勘違いしたのかもしれない。)わけで、ではそれは「真の恋愛ではなかった」と言えるのか、あるいは、単に「宗教の束縛による悲劇」と見るべきなのか。あるいは性的不能者には恋愛は不可能なのか。性的能力が未熟な子供は恋愛感情とは無縁なのか。
最後の事象に関しては、性的能力が未熟な年齢でも「恋愛感受性」は高い場合があり、性的体験を積むと恋愛感受性が劣化する、という見方もできるかと思う。
私は、通常の異性間の愛は漠然とした「愛」とは区別して「愛欲」あるいは「性愛」という言葉を使うのが適切ではないかと思う。それを「恋」と言うのも少し違う気がする。恋というのは、「そこに存在しないもの(自分の手が届かないもの)への憧れ」であるというのが私の考えだ。「憧れ」が恋の本質で、その対象を自分の物にしたい、となれば、それは愛欲であり、その対象とセックスをしたいとなれば、それは性愛だろう。
なお、愛はもっと広範囲なもので、人類愛も家族愛も愛車も愛社も愛犬もある。
では、愛とは何か、と言えば、これもまた哲学上の問題となるだろう。基本的には、その愛する対象に幸福になってほしいという気持ちかな、と思う。
つまり、「性愛」というのは、その中でも一番怪しげなもので、相手の満足より自分の性欲の充足が第一義であるのではないか、と私は疑うのである。まあ、これは私が男であるので、女性の側の心理は分からない。
(追記)同書を読み進めていたら、こういう一文があり、まさに「恋」の根本に触れていると思ったが、「結婚(相手が妻になった時)」ではなく、「最初に結ばれた時に」だろうと私は思う。恋というのは、その希望(相手と結ばれること)が実現した時に消えるというのが最大の特徴なのではないか。まあ、あらゆる憧れ(願望)は、それが実現した時に消えるものだと言えないこともない。
ただし、私のこの思想は結婚否定論ではなく、「恋」というものの過大視を戒めているだけである。結婚後の男女は性愛や愛欲の対象であるより、人生を一緒に生きる友愛と家族愛の対象に変わるのであり、それも素晴らしいことなのだ。
「妻と名がついた瞬間から、女は男にとって憧憬の対象であることを確実にやめていく」
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