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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

倫理とは何か

今さら倫理の定義をするのも何だが、司馬遼太郎の随筆「遠い世からの手紙」の中に、こういう一節がある。

司馬遷が感じた古侠者というのは、みずからのからだーー生命と倫理観ーーでもって無形の詩を書いた者をいうと思われるが(後略)

一読した時には、何を馬鹿なことを言っている、と思ったのだが、よく考えると、これは倫理の本質を案外道破している言葉かもしれない。

特に、倫理と詩は遠いようで近いものである気がする。(この点は後述する。)
また、侠者というのをヤクザと同一視したら、「倫理」(大文字の「倫理」である。)のかけらもない、人間の屑であるヤクザが「生命と倫理で無形の詩を書いた」とは馬鹿馬鹿しさも極まれり、だが、言うまでもなく侠者、特に昔の侠者というのはヤクザではない。類似点は、社会のルール(法律や常識)に束縛されず、何かのために自らの命を時には投げ出すというところだ。これは、非常に奇形的ではあるが、一種の倫理に従っているからそうなるのだろう。
ヤクザの倫理とは、もちろん自らの属する結社(集団・組織)への忠誠であり、これは軍人が自分の属する部隊に忠実に行動し、社畜が会社のために自分の生活を犠牲にするのと同様である。つまり、狭い倫理に忠実であるために、大きな倫理をないがしろにするわけだ。(軍人なら、殺人という反倫理的行動を仕事とする。)そして、最初からどのような倫理をも持たない連中もいる。それをサイコパスと言う。また、その行動に美的な価値観が存在しない連中がいる。そういうのを俗物と言う。行動面でのその美的な意識こそが倫理なのである。

ここで、先に書いた、「倫理と詩は遠いようで近い」という命題に帰る。
繰り返すが、「倫理とは行動の美である」というのが、倫理についての私の基本定義のひとつだ。であるならば、倫理と詩は非常に近いと言えるだろう。
そして、司馬遼太郎の言う、「古侠者は、みずからの生命と倫理感で無形の詩を書いた」という言葉は、正鵠を射ている、と言えるかもしれない。

蛇足的に書いておくが、夏目漱石の「坊ちゃん」の主人公は自分の「行動における美意識」に合わないものを許せない人間である。つまり、極度に倫理的な人間である。それが、坊ちゃんがなぜ行く先行く先で周囲のあらゆるものと衝突し、騒ぎを起こすのか、という理由である。つまり、「坊ちゃん」という作品は、「ドン・キホーテ」の兄弟なのである。ドン・キホーテが風車を巨人と思って突進するように、坊ちゃんは田舎の中学生を敵の大群と思ってそれと戦うのだが、それはもちろん、その中学生たちが行動において美意識のかけらもない俗物の集団だったからである。同僚たちも校長や教頭も宿屋の主人も同様だ。はたから見れば坊ちゃんのほうがキチガイじみて見えるのもドン・キホーテと同じである。






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