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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

エロスと愛


澁澤龍彦がある評論的随筆(「愛の形而上学と死刑」)の中でこう書いている。

「エロティシズムは人を物に変えるが、愛は人間を人間として再発見させる」

世間の人間の多く(特に西洋人、いや、地球の人間の大半)は、男女の愛、つまり恋愛の到達点を性的結合だと思っているだろうが、実は「エロティシズムは人を物に変える」のである。つまり、そこでは「性的快感」が最優先になり、相手は人間ではなくただの物になるのだ。誇張的に言えば、相手の男はただのペニスであり、女はただのヴァギナになる。
このことを澁澤龍彦は同じ文章の中で「セックスの本質的な想像性は、オナニズムの地獄におちいる必然性がある」とも言っている。要するに、そこに存在するのは相手という「人間」ではなく、自分の快感だけ、つまり「自分だけ」しか存在していない。これを「オナニズムの地獄」と言っているのだろう。(セックスが想像性を本質とするかどうかの考察は措いておく。)
では、「愛」はどうか。愛とは何よりも、「何かを欲する」ことである。「何かを自分のものにしたい」という欲望が愛である。つまり、英語の「want」が「欲する」意味と「欠乏している」意味を持っているというのは、実に叡知に満ちているわけだ。自分に欠乏している何かを得たいという気持ちが愛である。(あるいは、愛の発生によって自分の中の欠乏が自覚される。)(愛は欲望であるから、与えることも貰うことも不可能である。世間でよく言う「愛を与える」と言う言葉は誤用であり、正しくは「慈善」か「同情」である。また、「花を愛する」などの「愛する」は、「花によって自分の心の中に起こる美的感覚の満足を好む」意味である。花そのものを欲するのではなく、美的情緒が、ここでの「欠乏」の内容だ。)
そういう意味では愛と食欲と物欲に大きな違いは無いが、しかし澁澤龍彦は「愛は人間を人間として再発見させる」と言っている。それはなぜか。ここで言われる愛が「男女の愛」つまり「恋愛」だからだ。彼、または彼女が得たいのは相手の肉体だけではなく、人間(貴重な存在)としての全体なのである。恋愛の対象に肉体的欲望を持つこともあるだろうが、真の恋愛はむしろ相手を崇拝し、相手を地上一寸離れたような崇高な存在と「思いたい」欲望があるはずだ。
こういう美化作用、スタンダールの言う「結晶作用」は崇拝される当人には有難迷惑かもしれないが、そういう要素の無い恋愛は、単に性的欲望に娯楽性が少し加わっただけのものではないか。つまり、ドン・ジュアン(ドン・ファン)は、無数の女を手に入れただろうが、一度も「恋愛」はしていないと推定される。一見恋愛に見えるものも、相手の手に入れにくさが恋愛のゲーム的難度を高めて彼に闘志を燃やさせただけだろう。
話が逸れたが、とりあえず、「愛は人間を人間として再発見させる」というテーゼは正しいと私は認定する。と同時に「エロティシズムは人を物に変える」というテーゼにも同意する。もちろん、だからと言ってエロティシズムが無価値だとか不道徳だとか言う気は無い。実はエロスは倫理と対立的であるのが普通なのだが、それをきちんと論じるのは別の機会にする。

ついでながら、「Love」という言葉に神の愛から性愛まで含めたのは英語圏の人間の恋愛観念を混濁、いや、汚濁させたと私は思っている。(人間は自分の母語あるいは主言語でしか考えられないからである。)このこともいつか論じたい。




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